フランス第一共和政政府支配下における福音主義教会共同体設立
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「ラインラント福音主義教会」の記事における「フランス第一共和政政府支配下における福音主義教会共同体設立」の解説
フランスに併合される前のライン川左岸地域は聖界諸侯のケルン、トリーアの大司教が支配する地であった。1792年9月にフランス革命軍がプロイセン軍を撃破し、ラインラントを占領した後、さらにプファルツのシュパイアー、マインツ、ヴォルムス、ヘッセンのフランクフルトまで占領してしまった。1795年にプロイセン王国はフランスの間でバーゼルの和約を締結し、ライン左岸にあるプロイセン領を放棄した。1797年、オーストリア帝国もフランスとの間でカンポ・フォルミオの和約を締結し、ネーデルランドの所領(今日のベルギー、ルクセンブルク)を割譲し、秘密協定でフランスのライン左岸支配を容認した。それ以降の20年間、ライン左岸はフランスによって支配された。1806年8月、ナポレオンの保護領であるライン同盟が設立された。さらに1806年10月、ナポレオンはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を撃破、翌1807年にティルジットの和約によってプロイセンはライン川からエルベ川の間にある領地を放棄し、ヴェストファーレン王国が樹立され、フランス皇帝ナポレオン1世の弟ジェローム・ボナパルトが王位に即位した。これらの戦争の結果、ライン左岸とハンブルクはフランス本国に併合され、ライン右岸側のヴェストファーレンはフランスの保護国になった。 フランス占領期になって初めて、ラインラント地方の広い地域において福音主義教会共同体が合法的に設立できるようになった (現在のアーヘン、ケルン中央、トリーア、コブレンツ、クレーフェルト-フィーアゼン、クレーフェ、レバークーゼン、メンヒェングラートバッハ、ボン、バート・ゴーデスベルク、ザール西教会地区)。しかしながら、福音主義教会共同体の設立が始まっても、ラインラント全域において少数派のままであった。今日でもラインラント福音主義教会の管轄地域において、ローマ・カトリック教会は福音主義教会の2倍以上の教会員を有している。 フランスに併合されたライン左岸地域に設立された福音主義教会共同体は改革派かルター派教会組織に組み込まれたが、当初から合同教会としての自己理解を有していた。フランス占領期のライン‐モーゼル県ジンメン郡において、改革派とルター派は1802年において共通の宗務局によって管理運営されていた。 1802年、ライン‐モーゼル県の南側で隣接しているドナースベルク県(現在のラインラント=プファルツ州ドナースベルク郡)で、100名の牧師が教会管理の合同化を求める請願書に署名し提出していた(ザール県も含む)。
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