フランス第三共和政とライシテ
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「フランス第三共和政とライシテ」の解説
「フランス第三共和政」、「ライシテ」、および「政教分離法」も参照 ウィーン会議後のフランスの政体は、ブルボン家の復古王政(1814年-1830年)、オルレアン家の七月王政(1830年-1848年)、1848年革命後の第二共和政(1848年-1852年)、ナポレオン3世による第二帝政(1852年-1870年)と目まぐるしい転変を繰り返し、いずれの政権も比較的短命に終わった。1871年のパリ・コミューンとその後の政治的空白を経て、ジュール・フェリーをはじめとするフランス第三共和政初期の政治家たちはしばしば共和主義への「信仰」を語り、教育の現場や国会・地方議会など公的な場において宗教はこれに介入しないという大原則を打ち立てない限り、議会政治に基づく共和政の存続すら危ぶまれると考えた。第三共和政は、しばしばフランス革命原理の制度的な定着をもたらしたと評されるが、とりわけ共和主義的世界観をもった公民を育成する「習俗革命」は最も困難な課題とされた。実際には、革命後の市民的連帯感の育成に関しても決して共和主義的思潮がこれを独占したのではなく、むしろ修道士や修道女のコングレガシオン(集会)が学校や病院、地域住民の福祉のために精力的に活動を展開したことにより、おおいに担われていた。しかし、フランスのカトリック教会は絶対王政の支柱であったばかりでなく、19世紀にあってもカトリック主流派がつねに王党派に加担してきたことも事実であった。そういうなかで国家が「宗教からの自由」を確保するため、国民は宗教活動について一定の制限を受け、ある種の不自由さえ受け入れることさえ要請されたのである。これが、第四共和政、第五共和政の憲法にもうたわれた「ライシテ」(仏: laïcité)の原則である。 穏健共和主義者のジュール・フェリーは、1881年から翌年にかけて初等教育の場にあって「無償・義務・世俗化」原則を導入するフェリー法を成立させた。フェリー法以前は、聖職者身分証さえあれば公立学校の教壇に立つことも許容されていたのに対し、この法律では正規の教員免許状をもたない聖職者は公立学校の教壇に立てないこととしたのである。1880年のカミーユ・セー法における女子中等教育の世俗化、1881年のセーヴル女子高等師範学校の開設など、いずれもカトリックの青少年への影響力を削ぐ政策であり、共和政の安定のためにはフランスの地方農村になお根強く残る司祭の道徳的影響力を掘り崩し、師範学校卒業の教師に取って代わらせることが必要と考えられた。公立学校における宗教教育は全面的に禁止され、教室の壁からキリスト像が撤去されてマリアンヌ像に替えられたところもあった。教育内容も、フランス語を国語として普及させて「単一にして不可分な共和国」のための前提とし、聖史に代わって国史(フランス史)や地理を教授し、理科や算数の学習によって「迷信」を払拭して祖国愛と科学的世界観を備えた公民の育成に努めた。また、1880年には「日曜労働の自由」を承認したが、これはキリスト教の安息日に反するものであり、1884年のナケ法も1816年に復古王政下でカトリックの教義に反するとして廃止されていた離婚を再び合法化するものであった。1880年以降にフェリーは無認可修道会に解散命令を発し、全国で約2万人におよぶ修道士・修道女を追い立てて、多くの修道会系私立学校を閉鎖に追い込んだ。これらの反教権的政策を素直に受け入れた地域もあったが、信仰心の厚い地域では強い軋轢(あつれき)をもたらし、抵抗の激しい地域ではしばしば流血事件に発展して小規模な宗教戦争の様相を呈したところもあった。フェリーら共和派の政策は、以上のような反教権主義と共和主義的自由、植民地拡張を3つの柱としていた。国歌や国旗、国史、記念日などフランス革命の伝統が重んじられ、帝国主義に関してはドイツとの対立とを避けながらも普仏戦争の敗戦で傷ついた「フランスの栄光」をヨーロッパの外で実現しようというものであった。 1880年代後半には、穏健共和派による議会主義的な体制が大衆運動の高揚によって動揺した。将軍ジョルジュ・ブーランジェを中心とする反議会主義的な政治運動はドイツに対する報復の主張と熱狂的な愛国主義に支えられ、1889年のブーランジェ将軍事件の原因となった。 1890年代には、共和政と教会との対立抗争が小康状態となった。これには、ローマ教皇レオ13世が「レールム・ノヴァールム」と称される回勅を発してカトリック教会が近代社会に適応し、同時に資本制がもたらす社会問題に正面から向き合うことを表明してフランスの共和政に対しては「反対」ではなく「ラリマン(加担)」する政策を打ち出したことも、おおいに関係していた。しかし、1894年にフランス陸軍参謀本部の将校アルフレド・ドレフュス大尉がドイツのスパイ容疑で告発されるドレフュス事件が起こると、彼がアルザス出身のユダヤ人であったことからジャーナリズムを中心に反ユダヤ主義的世論が盛んになるとともに、それに対して自然主義文学の作家エミール・ゾラがフェリックス・フォール大統領への公開質問状「私は弾劾する」を新聞紙上で発表して再審要求がなされるなど、国論を二分する冤罪事件に発展した。1899年、ドレフュスは再審に有罪判決が下されたうえで大統領令によって特赦されるという政治決着が図られ、ようやく世論は沈静化した。ドレフュス事件は、今後も自由と民主主義を擁護するか否か、あるいは共和政を今後も存続させるか否かをめぐって一大政治闘争の様相を呈し、フランス国内に徹底的な政界再編が必要であることを示した。 1902年のフランス総選挙は急進党、民主共和同盟、社会主義者らの「左翼ブロック」の圧勝に終わり、急進共和主義者のエミール・コンブ(フランス語版)が首相に就任した。1880年代の「宗教戦争」の旗手はフェリーであったが、1900年代の旗手はコンブであった。教皇庁の「ラリマン」政策に乗じて修道会は復活を遂げていたが、コンブは反教権主義の諸政策を推し進め、就任後まもなく多数の無認可学校と無認可修道会を閉鎖した。前任者であるピエール・ワルデック=ルソーは、無認可修道会の解散令を含む結社法をすでに前年に成立させていたものの寛容な運用を図っていたのに対し、コンブは内務大臣と宗教大臣を兼ね、この法律の厳格な適用に踏み切ったのである。1902年に無認可修道系の学校で閉鎖されたのは約3千、解散を命じられた無認可修道会は300におよび、1903年には認可申請してきた修道会のうち135会派の申請を却下した。こららの措置によって1880年代同様、2万人におよぶ修道士・修道女が追われたのである。強制閉鎖に対する抵抗には軍隊も出動させるなど、反教権政策は苛烈で徹底したものであった。1904年7月には修道会教育基本法を成立させ、認可修道会を含めたすべての修道会士を教団から排除している。これにより、私立であっても修道聖職者が教育にかかわることが全面的に禁止された。2,400近い教育施設が閉鎖され、いくつかはベルギーやイタリアなどに移転している。同年、フランスはバチカンとの外交関係を断絶している。コンブ自身は、かつて神学を専攻して修道会系コレージュで教授した経験をもっており、信者からは悪魔と罵られて教皇庁からも断罪されたが、フェリー法に始まった教育の世俗化は法的にはここで完結した。ただし、修道会系の学校は私立世俗校の体裁で認可を受け、実際には聖職者が運営するという形式で、そののちも存続した。 政教分離法は1904年11月に上程されたが、1905年1月にコンブ内閣が総辞職し、後任のモーリス・ルーヴィエ(フランス語版)内閣によって同年12月に成立した。この政教分離法によって、フランス国家および地方公共団体の宗教予算は一切廃止となり、信仰は完全に私的領域に限定されることとなった。聖職者の政治活動は禁止され、宗教的祭儀における公的性格も剥奪されることとなった。教会財産の管理と組織運営は信徒会に委ねられた。これにより、19世紀の政教関係を100年余にわたって規定してきたナポレオン1世とローマ教皇の間で結ばれた1801年のコンコルダ(政教協約)、すなわちカトリックを「フランス国民の多数の宗教」と認め、フランス革命中にカトリック協会が受けた損害を聖職者に俸給を支払うことによって補償するとした協定は破棄され、16世紀以来のガリカニスム体制も最終的には解体された。これは、伝統的に国家と強く結びついてきたフランスのカトリック教徒にとっては容易に承認できることではなかったので、翌年の財産目録作成の際にはバリケードをつくるなど激しい抗議行動を展開した。ローマ教皇ピウス10世も政教分離法を掠奪法であると称して猛然と非難し、信徒会の結成も否認した。 教区教会による抗議行動は全国化し、前回を上回る激しさで攻囲戦が展開されたので、政府は軍を派遣せざるをえなくなったが、これには軍の一部からも反発も出て、それ以上の強硬策がとれなくなった。1907年には信徒会の設置義務を緩和し、コンブが執念を燃やした修道会教育禁止法も厳格な適用が見送られるようになった。こうして政教分離法は骨抜きにされた部分もあったが、その制度的枠組みがもつ意味は決して軽いものではなかった。この法律により、フランス革命期に始まって1世紀以上におよんだ共和派とカトリックとの文化統合をめぐる闘争に一応の決着がつき、1905年以降にライシテ(非宗教性)の国家原理はナチ占領期の一時期(ヴィシー政権)を除き、現在まで一貫してフランス共和国の法的枠組みを形成しているからである。
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