フランス第三共和政とライシテとは? わかりやすく解説

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フランス第三共和政とライシテ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「フランス第三共和政とライシテ」の解説

フランス第三共和政」、「ライシテ」、および「政教分離法」も参照 ウィーン会議後のフランス政体は、ブルボン家復古王政1814年-1830年)、オルレアン家七月王政1830年-1848年)、1848年革命後の第二共和政1848年-1852年)、ナポレオン3世による第二帝政1852年-1870年)と目まぐるしい転変繰り返しいずれの政権比較短命に終わった1871年パリ・コミューンその後政治的空白経てジュール・フェリーはじめとするフランス第三共和政初期政治家たちはしばし共和主義への「信仰」を語り教育現場国会地方議会など公的な場において宗教はこれに介入しないという大原則打ち立てない限り議会政治に基づく共和政存続すら危ぶまれる考えた第三共和政は、しばしばフランス革命原理制度的な定着もたらした評されるが、とりわけ共和主義世界観をもった公民育成する習俗革命」は最も困難な課題とされた。実際には、革命後の市民的連帯感育成に関して決し共和主義思潮がこれを独占したではなく、むしろ修道士修道女のコングレガシオン(集会)が学校病院地域住民福祉のために精力的に活動展開したことにより、おおいに担われていた。しかし、フランスのカトリック教会絶対王政支柱であったばかりでなく、19世紀にあってカトリック主流派がつねに王党派に加担してきたことも事実であったそういうなかで国家が「宗教からの自由」を確保するため、国民宗教活動について一定の制限を受け、ある種の不自由さ受け入れることさえ要請されのである。これが、第四共和政第五共和政憲法にうたわれたライシテ」(仏: laïcité)の原則である。 穏健共和主義者ジュール・フェリーは、1881年から翌年にかけて初等教育の場にあって無償義務世俗化原則導入するフェリー法を成立させた。フェリー以前は、聖職者身分証さえあれば公立学校教壇に立つことも許容されていたのに対し、この法律では正規教員免許状もたない聖職者公立学校教壇立てないこととしのである1880年のカミーユ・セー法における女子中等教育世俗化1881年セーヴル女子高等師範学校開設など、いずれもカトリック青少年への影響力削ぐ政策であり、共和政安定のためにはフランスの地方農村になお根強く残る司祭道徳的影響力掘り崩し師範学校卒業教師に取ってわらせることが必要と考えられた。公立学校における宗教教育全面的に禁止され教室の壁からキリスト像が撤去されマリアンヌ像に替えられたところもあった。教育内容も、フランス語国語として普及させて「単一にして不可分な共和国」のための前提とし、聖史に代わって国史フランス史)や地理教授し理科算数学習によって「迷信」を払拭して祖国愛科学的世界観備えた公民育成努めたまた、1880年には「日曜労働の自由」を承認したが、これはキリスト教安息日反するものであり、1884年のナケ法も1816年復古王政下でカトリック教義反するとして廃止されていた離婚を再び合法化するものであった1880年以降フェリーは無認可修道会解散命令発し全国で約2万人におよぶ修道士修道女追い立てて多く修道会私立学校閉鎖追い込んだ。これらの反教権的政策素直に受け入れた地域もあったが、信仰心の厚い地域では強い軋轢あつれき)をもたらし抵抗激し地域はしばし流血事件発展して小規模な宗教戦争様相呈したところもあった。フェリー共和派政策は、以上のような反教権主義共和主義的自由、植民地拡張3つの柱としていた。国歌国旗国史記念日などフランス革命伝統重んじられ帝国主義に関してドイツとの対立とを避けながらも普仏戦争敗戦で傷ついた「フランス栄光」をヨーロッパの外で実現しようというものであった1880年代後半には、穏健共和派による議会主義的な体制大衆運動高揚によって動揺した将軍ジョルジュ・ブーランジェ中心とする反議会主義的な政治運動ドイツ対す報復主張熱狂的な愛国主義支えられ1889年ブーランジェ将軍事件原因となった1890年代には、共和政教会との対立抗争小康状態となった。これには、ローマ教皇レオ13世が「レールム・ノヴァールム」と称される回勅発してカトリック教会近代社会適応し同時に資本制もたらす社会問題正面から向き合うことを表明してフランス共和政に対しては「反対ではなく「ラリマン(加担)」する政策打ち出したことも、おおいに関係していた。しかし、1894年フランス陸軍参謀本部将校アルフレド・ドレフュス大尉ドイツスパイ容疑告発されるドレフュス事件が起こると、彼がアルザス出身ユダヤ人であったことからジャーナリズム中心に反ユダヤ主義世論盛んになるとともに、それに対して自然主義文学作家エミール・ゾラフェリックス・フォール大統領へ公開質問状私は弾劾する」を新聞紙上で発表して再審要求なされるなど、国論二分する冤罪事件発展した1899年ドレフュス再審有罪判決下されたうえで大統領令によって特赦されるという政治決着図られ、ようやく世論沈静化した。ドレフュス事件は、今後も自由と民主主義擁護するか否か、あるいは共和政今後存続させるか否かめぐって一大政治闘争様相呈しフランス国内に徹底的な政界再編が必要であることを示した1902年フランス総選挙急進党民主共和同盟社会主義者らの「左翼ブロック」の圧勝終わり急進共和主義者のエミール・コンブ(フランス語版)が首相に就任した。1880年代の「宗教戦争」の旗手フェリーであったが、1900年代旗手コンブであった教皇庁の「ラリマン」政策乗じて修道会復活遂げていたが、コンブ反教権主義諸政策を推し進め就任後まもなく多数の無認可学校と無認可修道会閉鎖した前任者であるピエール・ワルデック=ルソーは、無認可修道会解散令を含む結社法をすでに前年成立させていたもの寛容運用図っていたのに対しコンブ内務大臣宗教大臣兼ね、この法律厳格な適用踏み切ったのである1902年に無認可修道系の学校閉鎖されたのは約3千、解散命じられた無認可修道会300におよび、1903年には認可申請してきた修道会のうち135会派申請却下した。こららの措置によって1880年代同様、2万人におよぶ修道士修道女追われのである強制閉鎖対す抵抗には軍隊出動させるなど、反教権政策苛烈徹底したものであった1904年7月には修道会教育基本法成立させ、認可修道会含めたすべての修道会士を教団から排除している。これにより、私立であっても修道聖職者教育にかかわることが全面的に禁止された。2,400近い教育施設閉鎖されいくつかベルギーイタリアなどに移転している。同年フランスバチカンとの外交関係断絶している。コンブ自身は、かつて神学専攻して修道会コレージュ教授した経験をもっており、信者からは悪魔罵られ教皇庁からも断罪されたが、フェリー法に始まった教育世俗化法的にはここで完結した。ただし、修道会系の学校私立世俗校の体裁認可を受け、実際に聖職者運営するという形式で、そののち存続した。 政教分離法1904年11月上程されたが、1905年1月コンブ内閣総辞職し後任のモーリス・ルーヴィエ(フランス語版内閣によって同年12月成立した。この政教分離法によって、フランス国家および地方公共団体宗教予算一切廃止となり、信仰は完全に私的領域限定されることとなった聖職者政治活動禁止され宗教的祭儀における公的性格剥奪されることとなった教会財産の管理組織運営信徒会に委ねられた。これにより、19世紀政教関係を100年余にわたって規定してきたナポレオン1世ローマ教皇の間で結ばれた1801年コンコルダ政教協約)、すなわちカトリックを「フランス国民多数宗教」と認めフランス革命中にカトリック協会受けた損害聖職者俸給支払うことによって補償するとした協定破棄され16世紀以来ガリカニスム体制最終的に解体された。これは、伝統的に国家強く結びついてきたフランスのカトリック教徒にとっては容易に承認できることではなかったので、翌年財産目録作成の際にはバリケードをつくるなど激し抗議行動展開したローマ教皇ピウス10世政教分離法掠奪法であると称して猛然と非難し信徒会の結成否認した教区教会による抗議行動全国化し前回上回る激しさ攻囲戦展開されたので、政府は軍を派遣せざるをえなくなったが、これには軍の一部からも反発出てそれ以上強硬策がとれなくなった1907年には信徒会の設置義務緩和しコンブ執念燃やした修道会教育禁止法厳格な適用見送られるようになった。こうして政教分離法骨抜きにされた部分もあったが、その制度的枠組みがもつ意味は決して軽いものではなかった。この法律により、フランス革命期に始まって1世紀以上におよんだ共和派カトリックとの文化統合をめぐる闘争に一応の決着がつき、1905年以降ライシテ(非宗教性)の国家原理ナチ占領期一時期ヴィシー政権)を除き、現在まで一貫してフランス共和国法的枠組み形成しているからである。

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