教会との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「教会との対立」の解説
少年期のムッソリーニは喧嘩っ早い性格で、腕っ節の強さで村の少年達のリーダーになっていた。しかし性格自体は寡黙で、後年もそうであった様に周囲に心を開かず、仲間と群れることを嫌って一人で行動することも多かった。勉学の面では教養深い両親の間に生まれ、田舎町の生まれでありながら正確な標準イタリア語を話すことができた。長男が教会を嫌うことは敬虔な母ローザの悩みの種であったが、プレダッピオに建設された義務教育部分のみを担当する二年制学校で勉学を終わらせるのは惜しかったこともあり、ファエンツァにあるサレジオ修道会系のイスティトゥート・サレジアーノ寄宿学校で勉学を継続した。寄宿学校ではラテン語や神学などを学んだが、この時期はムッソリーニにとって最悪の時期であった。 イスティトゥート・サレジアーノ寄宿学校では学費の大小によって生徒の待遇が異なり、庶民(下層民)・平民・貴族によってクラスが分けられ、寝食など全てで差別されていた。ムッソリーニは「社会の不公平さ」を実感し、また偽りの平等を説く教会を憎んだという。教師の側もムッソリーニを警戒し、風紀委員を通じて監視下に置いていた。こうした状況から学業成績こそ「鋭敏な知性や記憶力に恵まれている」「どの科目も一読するだけで暗記している」「試験成績では他の生徒を圧倒している」と高く評価されていながら、学校から脱走し、教師にインク瓶を投げつけ、上級生をナイフで刺し、堅信礼やミサを妨害する問題児になっていった。手に負いかねた修道会は五年生の時に退校処分とし、ムッソリーニはフォルリンポーポリにあった宗教色のないジョズエ・カルドゥッチ寄宿学校に転校した。後に父アレッサンドロは修道会に学費を払うことを拒否して裁判になっている。 転校した寄宿学校はノーベル文学賞を受賞したイタリアを代表する詩人ジョズエ・カルドゥッチの名を冠した無宗教式の寄宿学校で、彼の実弟であるヴァルフレード・カルドゥッチが校長を務めていた。カルドゥッチ兄弟はムッソリーニ親子と同じく共和主義と愛国主義の両立を政治的信念としていて、またイタリア統一の障害となった教会を嫌う世俗主義者でもあった。ムッソリーニは父との会話で自身の居場所を見つけたと報告し、以前とは一転して優秀な成績を収めて卒業した。卒業後は周囲の勧めから、下層階級にとって最も身近な栄達の手段であった教員免状を取得すべく、同じカルドゥッチ一族が運営するフォルリンポーポリ師範学校の予備課程に入校した。
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