教会との断絶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 14:12 UTC 版)
リエルは連邦政府からの返事を待つ間モンタナへ帰ろうかと考えたが、2月まで留まることに決めた。何も事態が進展しない中で、リエルは採りつかれた様に祈祷に専念するようになり、実際かつて見せた精神的な動揺を再発させる状態も見せた。リエルは次第に異端的な主義主張を信奉するようになりカトリックの指導者たちとの関係が悪化した。 1885年2月11日に請願書に対する回答が届いた。政府側の提案は、ノースウェスト準州の人口調査を行うとともに、不満について調査を行う委員会を設けるといったものであった。この回答を単なる時間稼ぎと解釈したメティは怒り、武力に訴える方法を支持する勢力が一気に台頭した。この勢力は、英語話者の地域共同体が多数派を占める教会や、地域指導者の Charles Nolin を支援するメティ一派からは支持を得られなかった。ところが、リエルは自己を救世主と看做す錯覚に影響を受けたためか、徐々にこのような急進的な動きに同調する傾向を強めた。 3月15日にはサン・ローランの教会においてリエルは急進的な立場を主張して説教を妨害した結果、秘跡を受けることを禁じられた。そしてリエルはしばしば独自の「神授のお告げ」について語ることが多くなった。しかし、現実から迷いを覚まされ、リエルのカリスマ性と雄弁な話術に揺り動かされたメティの多くは、Ignace Bourget 司教(フランス系カナダ人)がローマ教皇となるべきであり「ローマは地に落ちた」などという宣言にもかかわらず、リエルに対して忠実なままであった。 サン・ローランの聖職者は当時を振り返って、ちょうど蛇が獲物を狙う時のようにリエルはメティたちを狂気で魅了した、といった旨の記録を残している。
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