地域コミュニティ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/15 01:00 UTC 版)
地域コミュニティ(ちいきコミュニティ)とは、地域住民が生活している場所、すなわち消費、生産、労働、教育、衛生・医療、遊び、スポーツ、芸能、祭りに関わり合いながら、住民相互の交流が行われている地域社会、あるいはそのような住民の集団を指す。コミュニティという総称には、市町村などの地方自治体、地域を越えて連携した非営利組織などの集団、インターネット上で連絡を取り合う集団なども含まれる。そこで、地域社会の現地住民が集団の構成要素であるコミュニティを、特に地域コミュニティと定義し、行政、地域を越えた連携と連絡を基盤としたその他のコミュニティと区別する。
- ^ オストロム、ウォーカー「市場でも国家でもなく:集合的行動領域での変換過程を結びつけること」
- 1 地域コミュニティとは
- 2 地域コミュニティの概要
- 3 市民活動
地域、共同体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 08:25 UTC 版)
大辞泉では「習慣」の説明の2番目に 「その国やその地方の人々のあいだで、普通に行われる物事のやり方。社会的なしきたり。ならわし。慣習」 というものを載せている。つまり、「習慣」は、個人なそれも、国ごとのそれや地域的なそれも(さらに言えば、宗教・宗派ごとのそれも)指しうる。意識的に個人のそれか地域的なそれかを呼び分ける場合、学術的にそれらを呼び分けようとする場合などは、個人的なそれは「習慣」と呼び、地域的なそれは「慣習」と呼ぶ、というようなことが行われることがある。日常用語では「習慣」でどちらも指しうる。 人の誕生(出産)、結婚、死といった時に、どんなことをどのように行うか、どのようなやりとりをするか、といったことは国や地域ごとの慣習によるところが大きい。また、何歳になったら一人前の大人になったと見なすか、その時にどのような通過儀礼をおこなうか、ということも慣習によるところが大きい。また、日常的に人と人が出会った時に、どのように挨拶のしかたをするのか(ハグをするのか、頬と頬を触れさせるのか、握手をするのか、お辞儀(会釈)だけするのか、)ということも慣習によるところが大きい。 カトリック教会などでは、聖書に書かれているわけでもなく、福音書の中でイエスがそうするべきだと語ったわけでもないのに、カトリック教会の長い歴史の中で何かの拍子に あるやり方が広まり、いつしか、そうするのが当たり前のように教会メンバーの間に思われるようになっていることを、「慣習」と呼ぶかわりに、(カトリック教会内部の用語で)「伝統」と呼ぶことが多い。 慣習(地域的共同体内部で広く浸透している習慣)は、多くがその共同体の文化と関係がある。文化の影響も受け、また文化にも影響を与えている。共同体のメンバーにとって、なぜ、そういった慣習になっているのか、それなりの理屈が説明できるもの、他の慣習との関係や整合性を筋道だてて説明できるものもあるが、どうしてそうやり方が慣習になってしまったのか共同体のメンバーの誰にもさっぱり分からないもの(メンバーにとっても「奇妙」と感じられるもの、首をかしげたくなるようなもの)もある。 共同体のメンバーの大半が喜んでそうしている慣習もあれば、大半のメンバーが不幸のもとと感じ変更したいと感じている、というようなものまである。 ある慣習が、どの程度守られるべきか、に関する見方は、共同体の性質や、個々の慣習の内容による。どの程度慣習に従うかどうかについて、その共同体がある考え方を共有している場合もある(「守るべきだ」という考えが慣習化している面もあれば、「あまり守らなくてもよい」と慣習化している場合もある)が、どの程度尊重するかは個々のメンバーの性質による面もある。 例えば織田信長などは青年のころ、自分の地域にある池が「龍が住んでいるから入ってはいけない」というならわしになっていたところ、あえてその慣習に逆らって、仲間たちの前でその池に潜って徹底的に探してみせて、竜がいないことを示し、龍がいるかいないか入ってみなければ分からないだろう、この池に龍なんていないから入ってよいのだ、とやってみせた。
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