サーサーン朝による占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)
「エジプトの歴史」の記事における「サーサーン朝による占領」の解説
「ホスロー2世」および「ヘラクレイオス」も参照 大規模な征服活動によって地中海における「ローマ帝国」を復活させて見せたユスティニアヌス1世であったが、その没後には帝国政治は混乱し、またバルカン半島におけるスラヴ人の侵入やイベリア半島での西ゴート王国の巻き返し、東方におけるサーサーン朝からの圧迫、イタリアへのランゴバルド人の侵入など各方面での外敵の脅威に晒された。エジプトにおける脅威となったのはサーサーン朝であった。ビザンツ帝国とサーサーン朝は恒常的に戦争を繰り返していたが、ビザンツ皇帝マウリキオス(在位:582年-602年)がフォカス(在位:602年-610年)によって暗殺されると、オリエント軍司令官(magister militum per Orientum)ナルセス(英語版)が反乱を起こしてサーサーン朝を呼び込み、サーサーン朝の王、ホスロー2世(パルヴィーズ、在位:590年-628年)は機会を捉えてビザンツ帝国領に対する遠征を開始した。一連の戦いは当初サーサーン朝の圧倒的優勢の下で進展し、呼応してバルカン半島方面に侵入したアヴァール人の脅威も手伝って、サーサーン朝の軍団は610年までにアナトリア、メソポタミア、コーカサスの大部分を占領した。 ビザンツ帝国では一連の危機とフォカスの失政に対して、608年にカルタゴ(北アフリカ)のエクサルコスである大ヘラクレイオス(英語版)の息子ヘラクレイオスが従兄弟のニケタスとともに反乱を起こし、ニケタスが陸路エジプトへ進軍した。ニケタスの軍勢が現れるとエジプト人たちは彼を支持し、軍の司令官やアレクサンドリアの高級官僚も同調してフォカス派のアレクサンドリア主教が殺害された。フォカスはエジプト奪回を試みて複数回の攻撃を行ったが失敗し、これによってエジプトからコンスタンティノープルへの食糧供給が遮断され窮地に立たされた。610年にはヘラクレイオスが艦隊を率いてコンスタンティノープルを制圧し、フォカスを処刑して帝位についた。 東方国境ではサーサーン朝の進軍が続いており、611年から614年にかけて、ダマスカス、アンティオキア、エルサレムなどのシリア地方の大部分の都市が陥落した。617年から619年、あるいは619年から621年の間にサーサーン朝の軍勢はエジプトにも進軍し、これを占領した。シリアではユダヤ人やネストリウス派キリスト教徒たちがサーサーン朝の到来を歓迎したが、エジプトにおいても長期にわたるコンスタンティノープル教会との対立と帝国政府による宗教的圧迫のために単性派のキリスト教徒たちが同じ反応を示した。 ヘラクレイオスは一時カルタゴへの遷都を考慮するほど追い詰められたものの、620年代には本格的な反撃に移った。サーサーン朝は626年にコンスタンティノープルを包囲したが、ヘラクレイオスはサーサーン朝の本国を直撃することで事態の挽回を試みて、628年にサーサーン朝の首都クテシフォン(テーシフォーン)に迫り、ホスロー2世を失脚に追い込んだ。その後のサーサーン朝との講和で、占領された全領土がビザンツ帝国に返還され、エジプトもまたコンスタンティノープルの下に戻った。しかし、エジプトがビザンツ帝国に復帰するとただちに単性説を巡る教義論争が再燃し、様々な妥協が図られたがたちまち幻滅が広がった。
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