サーサーン朝と東ローマ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「サーサーン朝と東ローマ」の解説
詳細は「サーサーン朝」を参照 3世紀からローマ帝国はサーサーン朝ペルシアとは衝突を繰り返してきた。ペルシア王シャープール1世とゴルディアヌス3世とのシリア・メソポタミア戦争(242年 - 260年)では皇帝ウァレリアヌスが捕虜となり行方不明となった。その後、ペルシア王シャープール2世とローマ皇帝コンスタンティウス2世・ユリアヌスとの戦い(344年-363年)、ペルシア王バハラーム5世・ヤズデギルド2世とテオドシウス朝との戦争(422-450)が起こった。 ユスティニアヌス1世は西ヨーロッパの再征服のためにサーサーン朝ペルシアと532年から562年の平和条約を締結していたが、これは貢納金をペルシアに支払ってのものだった。ユスティヌス2世は572年、貢納金支払いを停止し、再びペルシアとの戦争が始まった。しかし、同時期にバルカン半島にはアヴァール人とスラヴ人が侵入してきた。 マウリキウス皇帝(在位:582年 - 602年)は係争地のアルメニアをペルシアに割譲して停戦させ、さらにアヴァール人とスラヴ人をドナウの北へ追い返した。しかし、不満を持った軍部はケントゥリオ(百人隊長)フォカスを皇帝へと押し立ててマウリキウスを処刑した。ペルシアとの戦争は継続し、ビザンツ軍は惨敗を続けた。このフォカスの時代は混乱がひどく、恐怖政治が展開され、ビザンツの暗黒時代と呼ばれる。 610年、カルタゴのヘラクレイオスがフォカスを打倒して、ローマ皇帝に即位した(在位:610年 - 641年)となった。しかし、613年のペルシアとの戦争で敗れて、シリアが陥落し、翌年にはエルサレムも陥落した。626年、ペルシアはアヴァール人とスラブ人と同盟を組んでコンスタンティノープルを包囲したが持ちこたえ、都を離れて転戦していたヘラクレイオスは627年にペルシアの奥深くに侵攻し、翌年にペルシアの都クテシフォンに迫って、ペルシアは全面降伏した。こうしてヘラクレイオスは、東ローマ帝国領のシリア・エジプト・エルサレムへ侵攻したサーサーン朝ペルシアとの東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)に勝利し、領土を奪回した。
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