古代のキリスト教都市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:45 UTC 版)
ラッカ周辺は先史時代から人間の居住があったとみられ、大きな町も築かれてきた。ラッカ周辺の遺丘には、紀元前5500年から紀元前4000年の町が崩れた跡である遺丘テル・ゼイダン(Tell Zeidan, 市街の5キロ東)と、 中期青銅器時代(紀元前2000年から紀元前1600年)にさかのぼる町の跡であるテル・ビア(Tell Bi'a, 市街地の東に隣接)があるが、テル・ビアはバビロニアの古代都市トゥトゥル(英語版)(トゥットゥル、Tuttul)であることが確認されている。 現代のラッカの町は、起源をヘレニズム期にさかのぼる。セレウコス朝の王セレウコス1世ニカトールはニケポリオン(Nikephorion, 古代ギリシア語: Νικηφόριον)という街を現在のラッカに建設した。その後継者セレウコス2世カリニコス(在位紀元前246年 - 紀元前225年)はニケポリオンを拡張し、自らの名にちなみカリニコス (Kallinikos, 古代ギリシア語: Καλλίνικος, ラテン語ではカリニクム Callinicum とも)と改名した。東ローマ帝国時代、皇帝レオ1世にちなんで短期間レオントゥポリス (Leontupolis) と改名されたが定着せず、カリニコスの名が使われ続けた。542年、サーサーン朝ペルシャのホスロー1世はメソポタミアに侵入してカリニコスを破壊したが、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が再建した。サーサーン朝と東ローマの協定により、北メソポタミアのカリニクムとニシビス、およびアルメニアのアルタハタは数少ない国境を超える貿易の拠点となった。 6世紀、カリニコスはシリアの修道院制度の中心となり、市街の北の丘にある聖ザアカイ修道院 (Deir Mār Zakkā / Saint Zacchaeus Monastery) が高名だった。跡地には509年に遡るモザイクの碑文があり、これがおそらく修道院の創設の時期とみられる。この修道院は10世紀頃までの様々な資料に名が見られる。もう一つ重要な修道院は「柱の修道院」(Dairā d-Esţunā / Bīzūnā monastery) であり、9世紀ごろ、アッバース朝の西半分の都がラッカであった時期にはシリア正教会のアンティオキア総主教座は「柱の修道院」にあった。
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