古代のハラン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 06:33 UTC 版)
ハッラーンはトルコとシリアの国境に近く、古代にはエデッサの名で知られたシャンルウルファ(ウルファ)の街から南東へ44kmほどの位置にある。シャンルウルファからハッラーンまでの道は、トルコ南東部の農業の中心である灼熱のハッラーン平原をまっすぐ伸びている。 古代メソポタミア文明の都市としての最盛期には、ハランは南のダマスカスからの道と、ニネヴェとカルケミシュを結ぶ道が交わる地点にあり、古代オリエントにおいては戦略的に非常に重要な地であった。なおかつ、ハランやエデッサはユーフラテス川やその支流バリフ川の上流の平原にあり、土壌は肥沃で雨量もメソポタミア南部より多く、農耕が早くから行われた地であった。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}旧約聖書創世記12章にはエホバからカナンの地へ行くよう命じられたイスラエルの始祖アブラム(後のアブラハム)がしばらく住み着き、彼の父テラはここで死んだがその後アブラハムの一家はハランを出立してカナンに向かった。このことから正しい信仰まで半道を進みながら途中でとどまる信者を「ハラン信者」と呼ぶことがある。[誰によって?][要出典] アッシリアの粘土板文書において、ハランは「ハラヌ」(Harranu、アッカド語で道路・通り道・旅を意味する「harrānu」より)の名で、紀元前1100年ごろのティグラト・ピレセル1世の時代以来頻繁に現れている。ヒッタイトのシュッピルリウマ1世は、ハラン付近を支配していたフルリ人のミタンニ王国を破り、ミタンニの王にシャッティワザを擁立して条約を交わしたが、シュッピルリウマ1世の息子でカルケミシュの副王ピヤシリはミタンニ征服の途上でハランを焼き払った。 ハランは紀元前763年にも略奪されたが、新アッシリアの帝王サルゴン2世により復興された。 紀元前612年にアッシリアのシン・シャル・イシュクンは、新バビロニアとメディアに敗れて首都ニネヴェが奪われ(ニネヴェの戦い)、アッシリアの亡命政権の首都はハランに移された。紀元前608年にアッシリアはハランでも敗れ、滅亡した(ハッラーン陥落(英語版))。紀元前605年にアッシリアと同盟を結んでいた、古代エジプトのネコ2世が新バビロニアと戦った(カルケミシュの戦い)。 ハランにあり古くからの崇敬を集めていた月神シンの神殿は、新アッシリアのアッシュールバニパルや新バビロニアのナボニドゥスなどにより何度も再建された。ローマ時代のシリアの歴史家ヘロディアヌス(紀元170年 - 紀元240年頃)もハランにあった月の神殿について言及している。 ユダ王国のヒゼキヤ王と同じ時代、ハランはアッシリアに対し反乱を起こし、アッシリアに再征服される。ハランに与えられていた特権の多くは奪われたが、サルゴン2世が後に回復した。
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