古代のヘラート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 05:41 UTC 版)
ヘラートが文字上の記録に現れるのはきわめて古く、紀元前5世紀にアケメネス朝のダレイオス1世がペルセポリスに残した碑文に既に、ハライヴァ(英語版)という名前であらわれる。ハライヴァは、現在のヘラートを中心とするオアシス都市国家を形成していた。 紀元前330年、マケドニア王国のアレクサンドロス大王がハライヴァを占領し、この地にギリシャ人の都市を立てた。ハライヴァはギリシャ語の記録ではアレイア(Αρία/Aria/Areia, ラテン語:Aria/アーリア, 古代ペルシャ語:アレイヴァ[要リンク修正])とされていたので、この町は古典古代のギリシャ、ローマには「アレイアのアレクサンドリア」(Alexandreia Areion)という名前で伝えられることになる。 ハライヴァはアレクサンドロスの死後はセレウコス朝の支配下に入り、さらにパルティアを経てサーサーン朝に併合された。サーサーン朝のシャープール1世の残した碑文にはハレーウの名前であらわれるヘラートは、イラン東部にあって山岳地帯や草原地帯の遊牧民との国境地域における軍事拠点として重要視されていたことがわかっている。484年にはエフタルに占領されたこともあったが、基本的にはサーサーン朝のもとでイラン文化圏の一部となっていった。
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