古代の世田谷と狐塚古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 00:27 UTC 版)
「狐塚古墳 (世田谷区)」の記事における「古代の世田谷と狐塚古墳」の解説
世田谷区には、2017年(平成29年)の時点で確認されている周知の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)は300か所近くあって、これは東京都区部では最多の数である。時代的には後期旧石器時代(約3万5千年前)から近代にいたるまで、各時代各期の遺構と遺跡が存在する。 世田谷区内では、約80基の古墳の存在が確認されている。分布の中心となっているのは、野毛地区、喜多見地区、砧地区で、いずれも多摩川沿いの台地や段丘面に造営されている。多摩川の流域では中流から下流の左岸域では、大田区田園調布地域にまず古墳が出現した。世田谷で古墳の造営が確認されたのは4世紀の末頃であり、砧地区の砧7号墳(前方後方墳ないし前方後円墳)や野毛地区の上野毛稲荷塚(前方後円墳か)が該当する。5世紀に入ると、多摩川の流域での古墳造営の中心が大田区田園調布地域から上流の野毛地区へと多摩川の流域を遡上するように移動している。 その後、砧地区では砧古墳群を形成しながら7世紀末まで、野毛地区では野毛大塚古墳などを含む野毛古墳群を形成して5世紀末まで古墳が造られた。「地形と周辺」の項で既に述べたとおり、狐塚古墳は、野毛古墳群に属する。同古墳群中最大の野毛大塚古墳の後、この地域を治めた首長の墓は八幡塚古墳・天慶塚古墳から御岳山古墳に引き継がれ、狐塚古墳は後期の首長墓とされる。
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