古代の交通路とは? わかりやすく解説

古代の交通路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:55 UTC 版)

法美郡」の記事における「古代の交通路」の解説

天武天皇時代672年-686年)、律令制度整備によって各地官道敷かれていった中国地方日本海側には山陰道通じるようになり、畿内から丹波国丹後国但馬国経て因幡国陸路結ばれたこの街道には、30里(約16キロメートル)おきに駅家設置され官道の格に応じた数の駅馬常備されることになっていた。山陰道場合には「小路」に格付けられており、各駅には5疋の馬を置くと定められていた。 古代山陰道具体的にどのようなルート辿っていたのかについては、文献史料記述と、遺跡など考古学的な研究とを総合して推定される。しかし特に因幡国内ではそうした手がかり乏しく明確なルートわかっていない。 唯一の情報みなされているのが『延喜式』(905年)の28兵部省諸国駅伝馬」の記述である。『延喜式』は山陰道整備よりも100数十年あまり後代のものなので、この記述直ち山陰道当初の姿を伝えているとは限らないが、当該部には次のような記述がある。 因幡国 駅馬 山埼。左尉。敷見。柏尾。各八疋。 伝馬 巨濃。高草気多。各五疋。 このうち「敷見」と「柏尾」については、学説によって多少差異はあるものの、いずれも千代川西側にあるという見解一致している。敷見は高草郡湖山池湖畔柏尾気多郡とみられている。しかし「山埼」(やまさき)と「左尉」(さゐ・さい)については、遺跡明確な遺称地はなく、駅の存在を伺わせる小字さえも認められないためよくわかっていない。 学説大きく分けると2説に分かれ蒲生峠越えて因幡国入ったあと、蒲生川沿って海側へ下り駟馳山峠・榎峠経由国府へ至るという説、蒲生川上流部入って十王経由袋川上流部から国府方面へ下るという説がある。前者の説を採るならば、「山埼」駅は巨濃郡岩井温泉付近、「左尉」駅は塩見川沿いの細川地区にあった推定され、左尉駅は法美郡服部郷に位置していたことになる。後者の説を採るならば、「山埼」駅は袋川の上流部の雨滝付近、「左尉」駅は因幡国庁に近い三代付近にあったと推定され、両駅は法美郡にあったということになる。

※この「古代の交通路」の解説は、「法美郡」の解説の一部です。
「古代の交通路」を含む「法美郡」の記事については、「法美郡」の概要を参照ください。

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