古代の中国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 05:22 UTC 版)
「中国の鍋料理」の由来は中国の殷王朝または周王朝の頃にあった。あの時の或る王様が「鼎」という礼儀用の器を食用の鍋として使い、下には猛火で鍋の中のスープを煮て、こういう形は中国の鍋料理、つまり火鍋の始まりである。中国での鍋料理は利便性が高いというところによって、漢王朝の時は軍隊の戦闘糧食とされ、また旅行食として扱われていた。漢のヒナベは「火鍋」という書き方じゃなくて、「焦斗」と書いていた。 中国の鍋料理を一気に「火鍋」という漢字表記に統一する時は800年後の唐王朝の時であった。唐国の貴族たちは鍋を喜んでいて、お湯の暖かさと冬の寒さが相性抜群になれるという点から、鍋の前に火を付け、「火鍋」と名付けた。間も無く中華貴族の定番料理として発達した。しかし、今のように庶民用の日常食としての火鍋料理はまだ中国全土に浸透おらず、庶民が毎日食べられる安い火鍋は中国北部の遊牧民の地域にしか存在しなかった。 時は更に400年ほど下り、同じ北方遊牧民のモンゴル族は元王朝の支配層になり、この影響下で火鍋はようやく中国全土の庶民にも普及した。元が亡び、漢民族が支配した明王朝の時代に入りると、モンゴル族の羊肉火鍋は漢民族の口に合わせるため改造され、具材・スープ・タレ・食器等も中華風の味に変貌し、現代の中国で食べられる様々な火鍋は殆どこの明の時代に完成したという。清王朝の乾隆帝の時に入り、火鍋は再び優雅な貴族食として生まれ変わった。視覚的には大きくて目立つことから、火鍋は清国の満州人の宴席料理「満漢全席」の中のクライマックスの役割を担当する料理として発展し、定着していた。
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