古代のマラティヤ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/10 02:08 UTC 版)
マラティヤ郊外の農村地帯にある集落アルスラーンテペ(Arslantepe)には、肥沃な三日月地帯に農業が起こった時期から人が暮らしてきた遺跡が残っている。古代、この遺跡はメリド(Melid)、メリッドゥ(Meliddu)、マラディヤ(Maladiya)などと呼ばれる都市であった。青銅器時代には、メリドはイスワ(Isuwa、Išuwa、イシュワ)王国に属する地方行政の中心となり、頑丈に要塞化されていた。これはおそらく、西からのハッティ(ヒッタイト)の脅威に対抗するためと考えられる。 ヒッタイトは紀元前14世紀にメリドを征服するが、ヒッタイトの滅亡後は、メリドは新ヒッタイト(シリア・ヒッタイト)に属する小国家のひとつカマンヌ(Kammanu)の中心となった。新ヒッタイトの時代、メリドは古くからのヒッタイトの伝統を継承する都市であった。1930年代にフランスの考古学者ルイ・デラポルテ(Louis Delaporte)が発掘に着手したアルスラーンテペ遺跡では、城壁内から宮殿が見つかっており、ライオンや支配者らの姿を刻んだ新ヒッタイト時代の彫像や浮彫が見つかっている。 アッシリアの王ティグラト・ピレセル1世(紀元前1115年 - 1077年)によりメリドは征服され、以後アッシリアへの貢納を払い続けることになった。しかしメリドは、アッシリア王サルゴン2世の軍によって紀元前712年に制圧され略奪されるまで都市としての繁栄を続けた。サルゴン2世による略奪と相前後して、アナトリアにはキンメリア人とスキタイ人が侵入し、以後メリドは衰退していった。 アケメネス朝とセレウコス朝の支配下で新たな場所に街が建てなおされた。アナトリアを征服したローマ帝国はこの新たな街であるメリテネ(Melitene)に第12軍団フルミナタを置いた。メリテネはアナトリア東部のアルメニア人居住地域のうち、アルメニア王国の西に広がる小アルメニア(P'ok'r Hayk'、ローマ帝国支配下の地域)全体の中心となった。4世紀に東ローマ帝国皇帝テオドシウス1世がローマ領アルメニアを第一アルメニア属州(セバステイア、現在のスィヴァスを中心とする)と第二アルメニア属州に分割し、メリテネは第二アルメニアの中心地となっている。
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