古代のラオディケイアとは? わかりやすく解説

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古代のラオディケイア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:52 UTC 版)

ラタキア」の記事における「古代のラオディケイア」の解説

古代ローマ時代地理学者ストラボンは『地理誌』(16巻2章9節)に、ラオディケイア立派な都市良港擁し豊かな土地囲まれていると書いている。特にブドウがよく実りアレクサンドリア消費されるワイン第一産地であるという。葡萄園はなだらかな山の斜面広がり頂上までのほとんどを占め、さらに山を越えた東のアパメア付近にまで広がっていたとある。 小さな半島と湾には古くから住居があった。フェニキア人はここにラミタ(Ramitha)という名の都市を置き、ギリシャ人にはレウケ・アクテ(Leuke Akte、「白い岬」)として知られていた。セレウコス朝開いたセレウコス1世ニカトールシリアからメソポタミアにかけてアンティオキアセレウキアなど数多く大都市築いたが、この半島の上小都市大規模に作り替え、母の名を取ってラオディケイア名付けた。他のラオディケイア区別するため「海に臨むラオディキア」「シリアラオディキア」とも呼ばれたラオディケイアは、セレウコス朝四大都市シリアのテトラポリス)の一つとなったフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記によれば(Bel. Jud. i. 21. § 11)、ヘロデ大王水道整備したとされ、大きな廃墟残っている。ストラボンは、共和政ローマ末期に、プブリウス・コルネリウス・ドラベッラによってラオディケイアの街は大変な災難にあった述べている。紀元前43年、ドラベッラはガイウス・カッシウス・ロンギヌスから逃れてラオディケイアに来たが、カッシウス軍勢攻められ街に籠城し、殺されるまでに街の大部分破壊したという。 ローマ皇帝セプティミウス・セウェルス時代2世紀末-3世紀)の凱旋門が今もラタキアには残っている。また新約聖書の記述によれば1世紀ごろにはラオディケイアには相当な規模ユダヤ人社会があったとみられる(Joseph. Ant. xiv. 10 § 20)。異端派アポリナリオス主義)の司祭アポリナリウス(390年没)はラオディケイア司祭であった

※この「古代のラオディケイア」の解説は、「ラタキア」の解説の一部です。
「古代のラオディケイア」を含む「ラタキア」の記事については、「ラタキア」の概要を参照ください。

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