古代のラオディケイア
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古代ローマ時代の地理学者ストラボンは『地理誌』(16巻2章9節)に、ラオディケイアを立派な都市で良港を擁し、豊かな土地に囲まれていると書いている。特にブドウがよく実り、アレクサンドリアで消費されるワインの第一の産地であるという。葡萄園はなだらかな山の斜面に広がり頂上までのほとんどを占め、さらに山を越えた東のアパメア付近にまで広がっていたとある。 小さな半島と湾には古くから住居があった。フェニキア人はここにラミタ(Ramitha)という名の都市を置き、ギリシャ人にはレウケ・アクテ(Leuke Akte、「白い岬」)として知られていた。セレウコス朝を開いたセレウコス1世ニカトールはシリアからメソポタミアにかけてアンティオキアやセレウキアなど数多くの大都市を築いたが、この半島の上の小都市も大規模に作り替え、母の名を取ってラオディケイアと名付けた。他のラオディケイアと区別するため「海に臨むラオディキア」「シリアのラオディキア」とも呼ばれたラオディケイアは、セレウコス朝の四大都市(シリアのテトラポリス)の一つとなった。フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』によれば(Bel. Jud. i. 21. § 11)、ヘロデ大王は水道を整備したとされ、大きな廃墟が残っている。ストラボンは、共和政ローマの末期に、プブリウス・コルネリウス・ドラベッラによってラオディケイアの街は大変な災難にあったと述べている。紀元前43年、ドラベッラはガイウス・カッシウス・ロンギヌスから逃れてラオディケイアに来たが、カッシウスの軍勢に攻められ街に籠城し、殺されるまでに街の大部分を破壊したという。 ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスの時代(2世紀末-3世紀)の凱旋門が今もラタキアには残っている。また新約聖書の記述によれば、1世紀ごろにはラオディケイアには相当な規模のユダヤ人社会があったとみられる(Joseph. Ant. xiv. 10 § 20)。異端派(アポリナリオス主義)の司祭アポリナリウス(390年没)はラオディケイアの司祭であった。
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