漢
(漢王朝 から転送)
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漢(かん、拼音: )は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。
注釈
- ^ 西方の世界へは「秦」の名が伝わり用いられた。
出典
- ^ Taagepera, Rein (1979). “Size and Duration of Empires: Growth-Decline Curves, 600 B.C. to 600 A.D.”. Social Science History 3 (3/4): 115–138. doi:10.1017/S014555320002294X. JSTOR 1170959.
- ^ Nishijima (1986), pp. 595–596.
- ^ 三崎良章『五胡十六国 中国史上の民族大移動』東方書店、2002年6月、60頁。
- ^ 藤田豊八「南漢劉氏の祖先につきて」『東洋学報 6(2)』、東洋文庫、1916年5月、247-257頁。
- ^ 陳寅恪 (1939年). “劉復愚遺文中年月及其不祀祖問題” (PDF). 歷史語言研究所集刊第八本第一分 (中央研究院歴史語言研究所). オリジナルの2022年2月23日時点におけるアーカイブ。 . "近年桑原騭藏教授《蒲壽庚事跡考》及藤田豐八教授《南漢劉氏祖先考》(見《東西交涉史之研究南海篇》),皆引朱彧《萍州可談》貳所載北宋元祐間廣州番坊劉姓人娶宗室女事,以證伊斯蘭教徒多姓劉者,其說誠是。但藤田氏以劉為伊斯蘭教徒習用名字之音譯,固不可信,而桑原氏以廣州通商回教徒之劉氏實南漢之賜姓,今若以復愚之例觀之,其說亦非是。鄙見劉與李俱漢唐兩朝之國姓,外國人之改華姓者,往往喜採用之,復愚及其它伊斯蘭教徒之多以劉為姓者,殆以此故歟? 關於復愚氏族疑非出自華夏一問題,尚可從其文章體制及論說主張諸方面推測,但以此類事證多不甚適切,故悉不置論,謹就其以劉為氏,而家世無九品之官,四海無強大之親,父子俱以儒學進仕至中書舍人禮部尚書,而不祭祀先祖,及籍貫紛歧,而俱賈胡(註:通商的胡人)僑寄之地三端,推證之如此。"
漢王朝
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霊帝(れいてい) 声 - 森川智之 後漢の第12代皇帝。廃帝弁と献帝の父。宦官の十常侍たちは霊帝を思いのままに動かしていたため、国は乱れ、黄巾の乱が起こり、漢帝国は滅亡への道をたどった。 廃帝弁(はいてい べん) 声 - 佐藤智恵 霊帝の長子で、何太后(声 - 安藤ありさ)との間に生まれた。名は弁。霊帝の死後、協皇子を帝位につけようとする十常侍らと、弁皇子を帝位につけようとする何進(声 - 茶風林)とが争い、蹇碩(声 - 桜井敏治)が殺されたため、弁が皇帝となった。しかし、朝廷に乗り込んだ董卓が協皇子を帝位に据えたために弘農王に格下げされる。後に李儒の手により、母の何太后とともに暗殺される。 献帝(けんてい) 声 - 折笠愛(少年時)、緑川光(成人時) 霊帝と王美人の間に生まれる。名は協。董卓により帝位をつけられ、後漢皇帝となる。董卓の死後、都の混乱ぶりを嘆いて長安を脱出して洛陽へ帰るが、曹操によって許昌へ遷都させられ、曹操からその名を利用されるだけの皇帝となった。董承(声 - 辻村真人)に曹操誅殺の密詔を下すが、発覚して忠臣をすべて殺されてしまう。
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