五胡十六国時代
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五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官の崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える[注釈 1]。
- ^ 代は北魏の前身であり、仇池は南北朝時代まで存在し、冉魏・西燕・翟魏・後蜀は2-10年と短命であったため、十六国に数えられていない。
五胡十六国時代
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その後、劉聡(在位:310年 - 318年)の代になって西晋を滅ぼし(永嘉の乱)、五胡十六国時代へと突入する。劉曜(在位:318年 - 329年)の代に国号を趙(前趙)に改めた。これまで中原を制覇してきた前趙の政権は不安定であり、そうしているうちに配下の石勒が襄国で独立して後趙を建て、329年に前趙は滅ぼされてしまった。 一方、独孤部や鉄弗部といった匈奴系の部族は鮮卑拓跋部(拓跋氏)の建てた代のもとにあり、独孤部は代に臣従していたものの、鉄弗部に至っては叛服を繰り返していた。376年、前秦の宣昭帝は代を滅ぼしてその地を東西に分け、東を独孤部の劉庫仁に、西を鉄弗部の劉衛辰に統治させた。やがて拓跋珪が北魏を建てる(道武帝)と、独孤部はそれに附いたが、鉄弗部の赫連勃勃は対抗して夏を建てた。その後、夏は北魏と争ったが、吐谷渾の寝返りもあって431年に滅んだ。
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五胡十六国時代
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327年、五胡十六国時代の前涼支配下で、戊己校尉である趙貞が謀反を起こしたため、張駿がこれを鎮圧し、その機会に高昌郡が設置され、いくつかの県に分けられた。その後、前秦・後涼・西涼・北涼の支配を経る。
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五胡十六国時代
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詳細は「翟魏」を参照 丁零族の翟氏は代々康居に住んでいたが、後に中国に移住し、翟斌(てきひん)の代になって後趙に臣従した。前秦の苻堅が華北を統一すると、翟斌ら丁零族は前秦に臣従し、新安郡・澠池郡に移住した。383年12月、前秦の衛軍従事中郎となっていた翟斌は河南で挙兵し、前燕復興を目論む慕容垂らと合流して前秦に反旗を翻した。384年、前秦から独立した慕容垂は後燕を建国し、翟斌を建義大将軍・河南王とした。しかし翟斌はまもなく後燕に対して反乱を起こしたため、慕容垂から斬首された。 翟斌の兄の子である翟真は承営に逃れて拠点を置き、前秦の長楽公苻丕と結んで後燕に対抗した。385年4月、翟真が承営から行唐に遷ると、翟真の司馬である鮮于乞は翟真を殺し、自ら立って趙王となった。営人は共に鮮于乞を殺し、翟真の従弟である翟成を立てて主とした。しかし、その衆の多くは後燕に降り、翟真の子である翟遼は黎陽に奔走した。5月、燕王の慕容垂は常山に至り、翟成を行唐で包囲した。7月、翟成の長史である鮮于得は翟成を斬って慕容垂に降った。慕容垂は行唐を攻め落とし、翟成の衆をことごとく穴埋めにした。 東晋の黎陽に逃れた翟遼は黎陽郡を乗っ取り、周辺の諸郡を傘下に入れた。しかし387年1月、慕容垂が侵攻してくると降伏し、慕容垂から徐州牧・河南公に封ぜられる。間もなくして翟遼は後燕に叛いて清河郡・平原郡を略奪。388年2月には自ら魏天王と称し、翟魏を建国、滑台に都を置いた。子の翟釗(てきしょう)の代になると、たびたび後燕に侵攻しては撃退され、392年には後燕に滅ぼされた。翟釗は一人西燕に逃れて慕容永から車騎大将軍・東郡王に封ぜられるが、1年後に謀反を起こして誅殺される。 その後の華北は北魏によって統一され(南北朝時代)、各丁零族もその支配下に入るが、上党丁零の翟都、楡山丁零の翟蜀、西山丁零の翟蜀・洛支、定州丁零の鮮于台陽・翟喬といった勢力がたびたび北魏に対して反乱を起こしては鎮圧された。 一方で、北の草原地帯に古くから存在する丁零族は高車と呼ばれ、後の鉄勒となってゆく。
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五胡十六国時代
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焉耆国・于闐国・車師前王国は、前涼の張駿に朝貢する。 380年頃、鄯善王と車師前部王は前秦に入朝し、大宛は汗血馬を献上し、粛慎は楛矢を貢納し、天竺国は火浣布を献上し、康居・于闐及び海東諸国は皆遣使を送ってその方物を貢納した。 382年、車師前部王の弥窴(中国語版)・鄯善王の休密馱(中国語版)が苻堅に朝貢したので、苻堅は朝服を賜い、西堂にて引見した。そこで弥窴らは宮殿の壮麗さを見せつけられ、毎年貢献することを請う。しかし、苻堅はそれを許さず、三年に一貢、九年に一朝と定めた。ここにおいて苻堅は驍騎将軍の呂光を持節・都督西討諸軍事とし、陵江将軍の姜飛・軽騎将軍の彭晃らと共に西域を征討した。 383年、呂光は長安を発し、鄯善王の休密馱に使持節・散騎常侍・都督西域諸軍事・寧西将軍を加え、車師前部王の弥窴に使持節・平西将軍・西域都護を加え、その国の兵を率いて呂光の嚮導(道案内)となった。
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五胡十六国時代
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西晋の時代、モンゴル高原では統一政権のない時代が続いており、北部では丁零族が各部に分かれて勢力を広げ、南部では鮮卑族の拓跋部・慕容部・宇文部・段部・禿髪部・乞伏部が分立していた。八王の乱(291年 - 305年)以降、これらを含む中国の周辺異民族は傭兵として雇われ、徐々に中国内部での勢力を増していった。南匈奴の劉淵が起こした永嘉の乱によって西晋が倒されると、華北は異民族の国家が興亡する五胡十六国時代へと突入する。その間のモンゴル高原南部は鮮卑拓跋部の代国が勢力を張り、北部では高車(丁零)が勢力を張ることとなる。
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五胡十六国時代
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西晋滅亡後、華北では五胡十六国が華北統一を、江南では東晋が華北奪還を目指した。やがて華北は前秦に統一されるも、淝水の戦いでの敗北をきっかけに分裂し、北魏が再統一を果たした。しかし北魏も漢化政策を始めとする内部対立により東西に分裂、西魏は北周に、東魏は北斉となり、更に北周を継いだ隋が南朝陳を滅ぼし、中華の再統一を果たした。江南ではその間、東晋・南朝宋・斉・梁・陳が交替した。 五胡十六国王朝初代君主最後の君主存在年首都民族滅亡原因前涼張軌 張天錫 301〜376 姑臧 漢族 前秦による滅亡 前趙劉淵 劉煕 304〜329 左国城→離石→黎亭→蒲子→平陽→長安 匈奴 後趙による滅亡 成漢李特 李勢 304〜347 成都 巴賨(氐) 東晋の成都攻略 後趙石勒 石祗 319〜351 襄国→鄴 羯 冉魏の成立 前燕慕容皝 慕容暐 337〜370 棘城→龍城→薊→鄴 鮮卑 前秦との約束反故による侵攻 前秦苻健 苻崇 351〜394 長安→晋陽→南安→胡空堡→湟中 氐 淝水の戦いの敗戦を一因とする分裂、西秦の成立 後燕慕容垂 慕容熙 384〜409 中山→龍城 鮮卑 馮跋のクーデターによる北燕成立 後秦姚萇 姚泓 384〜417 長安 羌 東晋の侵攻 西秦乞伏国仁乞伏乾帰 乞伏乾帰乞伏暮末 385〜400409〜431 ①勇士城→金城→西城→苑川②度堅山→苑川→譚郊→枹罕→定連→南安 鮮卑 ①後秦に降伏・臣従②夏に降伏、その後の一族殲滅 後涼呂光 呂隆 386〜403 姑臧 氐 後秦による属国化、臣従 南涼禿髪烏孤 禿髪傉檀 397〜414 廉川堡→楽都→西平→楽都→姑臧→楽都 鮮卑 西秦に降伏 北涼沮渠蒙遜 沮渠牧犍 397〜439 楽涫→張掖→姑臧 盧水胡(匈奴) 北魏に降伏 南燕慕容徳 慕容超 398〜410 滑台→広固 鮮卑 東晋の反撃により滅亡 西涼李暠 李恂 400〜421 敦煌→酒泉→敦煌 漢族 北涼の計略による北涼侵攻戦で大敗 夏(胡夏)赫連勃勃 赫連定 407〜431 統万城→上邽→平涼 匈奴 北涼への遠征の途中で吐谷渾の襲撃 北燕馮跋 馮弘 409〜436 龍城 漢族 北魏の侵攻、亡命先の高句麗での殺害 五胡十六国時代の戦争戦争名戦争年間攻撃側(君主名)防衛側(君主名)原因勝者結果・講和条件前秦の東晋侵攻383 前秦(苻堅) 東晋(司馬曜) 苻堅の統一政策 防衛側(東晋・司馬曜) 前秦の瓦解による後燕、西燕、後秦、後涼の独立、西秦、夏や代(→北魏)の成立 南朝宋のクーデター477〜479 斉王(蕭道成) 南朝宋(劉昱) 劉昱の数々の残虐行為 攻撃側(南朝宋・蕭道成) 南朝宋から南朝斉への禅譲 南朝斉のクーデター501〜502 梁王(蕭衍) 南朝斉(蕭宝巻) 蕭宝巻の数々の残虐行為 攻撃側(南朝梁・蕭衍) 南朝斉から南朝梁への禅譲 六鎮の乱523 反乱軍(破六韓抜陵) 北魏(元脩) 漢化政策による鮮卑側での不満 防衛側(北魏・元脩) 北魏の東西分裂と武川鎮軍閥(関隴集団)の台頭 東魏の滅亡534〜550 懐朔鎮軍閥(高洋) 東魏(元善見) 高歓から高洋への代替わり 攻撃側(北斉・高洋) 東魏から北斉への禅譲 侯景の乱548〜552 漢(侯景) 南朝梁 (蕭衍) 板挟みになった侯景の建康攻略 防衛側(南朝梁・蕭衍) 蕭衍の死と南朝梁の弱体化、蕭繹による平定 南朝梁のクーデター554〜557 南朝陳(陳霸先) 南朝梁(蕭方智) 蕭繹の戦死、王僧弁と陳霸先の対立 攻撃側(南朝陳・陳霸先) 南朝梁の滅亡、南朝陳の成立 南朝陳の滅亡588〜589 隋(楊堅) 南朝陳(陳叔宝) 隋の統一政策 攻撃側(隋・楊堅) 隋による再統一
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五胡十六国時代
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「中国の歴代王朝一覧」の記事における「五胡十六国時代」の解説
詳細は「五胡十六国時代」を参照 五胡十六国時代については、帝号・王号・単于号など様々な称号を有する国が乱立していたため、ここではいわゆる五胡十六国のみ記す。 五胡十六国王朝初代君主最後の君主存在年首都民族滅亡原因前涼張軌 張天錫 301〜376 姑臧 漢族 前秦による滅亡 前趙劉淵 劉煕 304〜329 左国城→離石→黎亭→蒲子→平陽→長安 匈奴 後趙による滅亡 成漢李特 李勢 304〜347 成都 巴賨(氐) 東晋の成都攻略 後趙石勒 石祗 319〜351 襄国→鄴 羯 冉魏の成立 前燕慕容皝 慕容暐 337〜370 棘城→龍城→薊→鄴 鮮卑 前秦との約束反故による侵攻 前秦苻健 苻崇 351〜394 長安→晋陽→南安→胡空堡→湟中 氐 淝水の戦いの敗戦を一因とする分裂、西秦の成立 後燕慕容垂 慕容熙 384〜409 中山→龍城 鮮卑 馮跋のクーデターによる北燕成立 後秦姚萇 姚泓 384〜417 長安 羌 東晋の侵攻 西秦乞伏国仁乞伏乾帰 乞伏乾帰乞伏暮末 385〜400409〜431 ①勇士城→金城→西城→苑川②度堅山→苑川→譚郊→枹罕→定連→南安 鮮卑 ①後秦に降伏・臣従②夏に降伏、その後の一族殲滅 後涼呂光 呂隆 386〜403 姑臧 氐 後秦による属国化、臣従 南涼禿髪烏孤 禿髪傉檀 397〜414 廉川堡→楽都→西平→楽都→姑臧→楽都 鮮卑 西秦に降伏 北涼沮渠蒙遜 沮渠牧犍 397〜439 楽涫→張掖→姑臧 盧水胡(匈奴) 北魏に降伏 南燕慕容徳 慕容超 398〜410 滑台→広固 鮮卑 東晋の反撃により滅亡 西涼李暠 李恂 400〜421 敦煌→酒泉→敦煌 漢族 北涼の計略による北涼侵攻戦で大敗 夏(胡夏)赫連勃勃 赫連定 407〜431 統万城→上邽→平涼 匈奴 北涼への遠征の途中で吐谷渾の襲撃 北燕馮跋 馮弘 409〜436 龍城 漢族 北魏の侵攻、亡命先の高句麗での殺害
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五胡十六国時代
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「元号一覧 (中国)」の記事における「五胡十六国時代」の解説
五胡十六国時代は以下の通り。
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