楚漢戦争とは? わかりやすく解説

楚漢戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/04 21:11 UTC 版)

楚漢戦争

戦争:楚漢戦争
年月日紀元前206年 - 紀元前202年
場所中国全土
結果の勝利
交戦勢力
西楚
指導者・指揮官
劉邦
韓信
張良
蕭何など
項羽
范増
鍾離眜
龍且など
戦力
楚漢戦争
楚漢戦争
項羽が諸侯に与えた領地
各種表記
繁体字 楚漢戰爭
簡体字 楚汉战争
拼音 Chǔ Hàn zhànzhēng
注音符号 ㄔㄨˇㄏㄢˋㄓㄢˋㄓㄥ
発音: チュハン ヂャンヂォン
広東語拼音 Co2 Hon3 zin3-zang1
日本語読み: そかん せんそう
英文 Chu–Han Contention
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楚漢戦争(そかんせんそう)は、中国紀元前206年から紀元前202年にわたり、王朝滅亡後の政権をめぐり、西楚の覇王項羽劉邦との間で繰り広げられた戦争。「楚漢争覇」「項羽と劉邦の戦い」とも呼ばれる。

戦争前の経緯

滅亡後、項羽は根拠地である彭城(現在の江蘇省徐州市)に戻り、自ら西楚の覇王を名乗った。圧倒的な軍事力を背景に政治上の主導権を握った項羽は、紀元前、諸侯を対象に大規模な封建を行う。主なものは以下の通りである。

  • 漢中 - 劉邦
    • 旧秦の領地である関中は、本来ならば一番乗りを果たした劉邦に与えられる約束となっていたが、項羽はこれを反故にして、当時は辺境の地であった漢中に劉邦を追いやった。
  • - 張耳
  • - 趙歇
    • 趙王であった趙歇を趙の北辺の代に国替えし、項羽に付いて関中にまで従軍した趙の宰相の張耳を常山王として、趙の旧領を与えた。陳余は項羽とともに従軍しなかったため、南皮を与えられたに過ぎなかった。
  • 九江 - 英布
  • 衡山 - 呉芮
  • 臨江 - 共敖
    • 英布は楚軍の将軍として多大な功績を挙げたので、九江王として六(現在の安徽省六安市)に都させた。また、英布の舅で元県令の呉芮を衡山王、部下の共敖を臨江王として呉楚を治めさせた。
  • 遼東 - 韓広
  • - 臧荼
    • 元の燕王の韓広を遼東に移し、項羽に協力した燕の将軍臧荼を燕王にした。
  • 膠東 - 田巿
  • - 田都
  • 済北 - 田安
    • 元の斉王の田巿を移して膠東王にして、項羽に協力した斉の将軍田都を斉王にした。そして項羽と親しい斉の王族の田安を済北王として、斉を三分した。また、田巿の擁立者であり、斉の実質的な支配者であった田栄は項羽に協力しなかったので、何も与えられなかった。
  • 西魏 - 魏豹
  • 河南 - 申陽
  • 殷 - 司馬卬
    • かつて公子魏咎の弟(従弟とも)で、項梁(項羽の叔父)を頼った魏豹に魏を分割して西部を与えて西魏王に封じ、武臣・張耳の将で魏の東部に趙の将軍の申陽をおいて河南王とした。また、殷の故地にやはり趙の将軍である司馬卬を封じて殷王とした。
  • - 鄭昌
    • 韓王成が劉邦と親密だったことから、項羽は彼を抑留し、自分の部下の鄭昌を立てて韓王とした。

このように項羽の封建の基準となったものは、その時の功績ではなく、あくまでも項羽との関係が良好か否かであった。故にその結果はかなり不公平なものとなり、諸侯に大きな不満を抱かせるものとなった。

さらに項羽は、それまで奉じていた楚の懐王に義帝という称号を与えて辺境の郴へ流した上で、九江王の英布に命じて殺害させた。また、韓王成が領国であるへ帰ることを許さず、その後范増に命じて殺害させた。このため、韓王成に仕えていた張良を劉邦の下へと走らせることになった。

楚漢戦争勃発

紀元前206年、まず田栄が田都を殺して自ら斉王になった。そして、のちに劉邦に付いて活躍した彭越を将軍として軍を派遣し、済陰を攻撃させた。

かつて張耳の同志であった陳余は、秦によって趙が攻められて張耳が籠城したときに救援しなかったことで仲違いしており、項羽から何も与えられなかったことを不満に思っていた。そこで陳余は張耳を攻めて趙を占領し、元の趙王である趙歇を迎えて趙王にした。この功績で陳余は趙歇より代王とされた。敗れた張耳は逃れて劉邦の下へ奔った。

そして紀元前205年、項羽の最大の敵である劉邦が漢中より出て、関中を陥れた。

項羽は大いに怒ったものの、まずどれを討つべきかを迷った。しかし劉邦から「項羽と敵対するつもりはない」という手紙が来たので、まず斉を討つことに決めた。田栄は抵抗したものの項羽に敗れ、逃亡したところを農民によって殺された。しかし項羽はこれで満足せず、斉の城を次々と落とし、捕虜を穴埋めにし、各地を焼いて回った。このため斉の民衆は怒って項羽に反抗し、さらに田栄の弟の田横が斉の残兵を集めて抵抗したので、平定することが出来なかった。

項羽が斉で苦戦していることを見た劉邦は、諸侯との連合軍56万人を率いて項羽の本拠の彭城を陥落させた。このことで劉邦と諸侯軍は増長して軍律が乱れ、連日城内で宴会を開き、略奪を行い、女に乱暴する、という状態になった。このことを聞いた項羽は激怒し、自らが選んだ精兵3万のみを引き連れて彭城へと戻り、油断していた劉邦たちを散々に打ち破った(彭城の戦い)。

紀元前204年、劉邦は何とか逃げ出して滎陽(現在の河南省滎陽市)にて篭城し、項羽軍もこれを追撃して滎陽に至った(滎陽の戦い)。その間に、斉では田横が田栄の子である田広を立てて斉王とし、斉一帯を制圧した。

劉邦は追い詰められたが、陳平紀信の策を用いて脱出し、関中に戻ると蕭何の用意した兵士や物資で体勢を立て直した。この時に英布を自らの陣営に取り込むことにも成功している。

韓信の躍進

同じ頃、劉邦の将軍である韓信は、劉邦から離反した西魏を攻め、これを下して王の魏豹を廃して庶人とした。次に劉邦の命により代を下し、さらに趙へと攻め込んだ。この時の韓信の兵力はわずか2万であったが、独創的な戦術(背水の陣)で20万と号した趙軍を半日で打ち破って趙を占領、趙王歇と代王陳余を処刑して、張耳を趙王とした(井陘の戦い)。その後、趙の降将である李左車の策を容れて、燕王臧荼を降伏させることにも成功する。

紀元前203年、劉邦は韓信に対して斉を討つように命令した。ところがその後で、劉邦は儒者酈食其を派遣して斉との和平交渉を行わせ、斉もこれに応じた。韓信は斉との国境付近まで来てこれを知ったが、謀士の蒯通に「これでは弁士の功績が将軍の功績を上回ってしまうことになる」と唆されて斉へ攻め込み、これを占領した。酈食其は怒った斉王田広と宰相田横により、釜茹での刑に処された。

逃れた田広たちは楚に救援を求め、楚は将軍龍且を派遣するが、韓信はこれをも破った(濰水の戦い)。これらの功績により韓信の名声は非常に高まり、韓信は劉邦に自らを斉王にするように要請して、これを認められた。ここに至り、韓信は劉邦の将軍というよりも一つの独立勢力としての立場を築くことになった。項羽もこれを恐れるようになり、武渉という者を派遣して韓信を自分の方へと引き込もうとしたが、韓信はかつて項羽軍にいた時に冷遇されていたことを覚えていたのでこれを断る。

蒯通は韓信に対し、自立して天下を三分するべきだと説いたが、韓信は悩んだ末に劉邦への恩義を選び、蒯通は後難を恐れ、発狂した振りをして逃げ出した。

楚の敗北

関中から出撃した劉邦は、彭越たちに命じて項羽の後方を撹乱させ、これに乗った項羽は彭越の方へと軍を向けた。この隙に劉邦は秦の食料集積地であった敖倉の食料を手に入れ、滎陽の北の広武山に陣した。彭越たちを追い散らした項羽は、戻ってきてその向かい側の山に対陣した。

彭越たちは項羽軍の後方撹乱を続けたので、項羽は食糧不足に悩んだ。漢軍では途中で劉邦が負傷したこともあって、両軍共に和睦を望むようになり、劉邦軍の弁士の侯公が使者となって和睦し、天下を二分することを取り決めて両軍が引き上げることになった。

劉邦はそのまま引き上げる気でいたが、張良陳平は、楚軍が本拠に帰って英気を養った後では漢軍は到底敵わなくなるだろうと考え、劉邦に楚軍の背後を襲うべきだと進言した。

劉邦はこれに従って楚軍を後ろから襲ったが、敗北した。これに先立って韓信と彭越に共同軍を出すように使者を送ったが、2人は来なかった。劉邦がこれに対する恩賞を何も約束しなかったからである。張良にこれを指摘された劉邦は、韓信を斉王とし、彭越を梁王とする約束をした。果たして2人は軍を率いて加勢し、兵力で圧倒した漢軍は楚軍を垓下へと追い詰める(垓下の戦い)。

楚軍を包囲した漢軍から楚の歌が聞こえ(四面楚歌)、楚軍のほとんどが降伏したと考えた項羽は勝利を諦め、残った800騎を率いて脱出し、南下した。途中湿地帯に迷い込むなどした項羽たちは数千騎の漢軍に追いつかれ、ついに意を決して戦いを挑んだ。28に減った騎兵を4隊に分けた項羽は漢軍に切り込み、大将1人を切り伏せると、山の東側に部下を集結させ、再び切り込んで100人もの兵を斬った。この間、項羽が失ったのは2騎のみであった。

逃げた項羽は烏江(現在の安徽省馬鞍山市和県烏江鎮)へ到った。河の渡し場では烏江の亭長が船を準備しており、項羽に江東へ逃げるよう献言した。しかし、項羽はそれを断って愛馬を亭長に与え、生き残った26の歩兵を率いて漢軍を迎え撃った。項羽は満身創痍となりながらも1人で数百の漢兵を斬った。項羽は旧知の呂馬童を敵軍の中に見つけ、「漢王はわたしに莫大な賞金をかけ、万戸侯を約束しているというではないか。お前は旧知の仲だ。ひとつ、手柄をやろう」と言い、みずからの首を切った。王翳が駆け寄って首を拾ったが、周囲の漢兵たちも群がり、互いに斬りあって項羽の死体を奪いあった。数十人の死者を出した結果、呂馬童・王翳・楊喜・呂勝・楊武の5人が項羽の首と両手足を分けあい、褒賞を5分して受けた。

項羽の敗北が決定的となってものみは降らずにいたが、項羽の首を見ると降った。劉邦は項羽を魯公として葬り、喪に服し、墓前に涙をそそいだ。また、項伯ら残った項羽一族を誅殺することはせず、「劉」の姓を与えて家を存続させた。さらに項羽の右腕として劉邦を苦しめた季布や陳嬰も、諌められてこれを登用した。しかし同じく項羽の右腕として劉邦を苦しめた鍾離眜は韓信が匿っていたが、韓信に謀反の疑いがかけられたときに自決させられた。

関連作品

映画
テレビドラマ
小説
戯曲
漫画
ゲーム

楚漢戦争

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項羽」の記事における「楚漢戦争」の解説

同年5月、斉の王族田栄挙兵した。その後封建に不満を抱く陳余彭越続々項羽封建した王に対して兵を起こす同年7月項羽は、韓王成を侯に格下げして、殺してしまった。 同年8月劉邦挙兵し関中封じた章邯司馬欣董翳交戦行った紀元前205年10月義帝臣下次第に背くようになり、項羽は、英布呉芮共敖命じて、その途中で暗殺させている。 項羽は、かつて韓王成仕え劉邦仕えていた張良から「劉邦は、懐王の約の通り関中得れば、東に進んで項羽と争う気はない」という書簡と斉(田栄)と彭越)の謀反書を受け取ったため、同年正月北上して斉を討伐する城陽にて田栄破り田栄平原まで逃亡し殺される項羽はさらに北上して北海まで進軍して、斉の城や家屋焼き田栄降伏した兵士生埋めにし、老弱婦人しばって捕虜とした。そのため、斉の人々集まって抵抗して田横が斉の兵を収めて城陽にて反抗した項羽田横連戦したが、なかなか降伏させることができなかった。九江王に封じた英布にも救援要請行ったが、病と称して拒否され英布を恨むようになった。 また、三秦(関中)を平定し洛陽にて義帝殺害されたことを知った「漢王」劉邦大義名分得て諸侯項羽討伐呼びかける。これ以降と漢の戦争を「楚漢戦争」と呼ぶ。 このときの諸侯向けた檄文は以下のものであった。 「天下共立義帝北面事之.今項羽放殺義帝於江南,大逆無道寡人親為發喪諸侯縞素.悉發関内兵,収三河士,南浮江漢以下,願従諸侯王之殺義帝者.(天下の人はともに義帝立て北面して仕えた項羽義帝江南放逐して殺したことは、大逆無道行いである。私(劉邦)は自ら喪を発した諸侯もみな喪服着よ関中の兵を全て発し三河河內河東河南)の兵を収め、南の方、江漢浮かべて下っていき、諸侯王に従って義帝を弑した者(項羽のこと)を討つことを願う)」 同年4月劉邦は魏・趙などと連合して56大軍率いて彭城占領するが、3精兵のみを率いて急行してきた項羽はこの大軍一蹴し20万余殺戮する彭城の戦い)。劉邦敗走し劉邦の父である劉太公や妻の呂雉項羽捕虜となった淮南王である英布が漢につき、反したため、項声と龍且討伐命じる。漢3年紀元前204年12月龍且淮南攻撃して英布打ち破り英布逃亡した項伯派遣し淮南占領する同年4月項羽滎陽一帯劉邦追い込んだが(滎陽の戦い)、その間に、田横田広王として斉を手中にいれてしまった。諸侯項羽味方し項羽滎陽攻め立てたが、劉邦側の陳平による内部分裂工作により、参謀にあたり亜父(父についで尊敬する人)とまで呼んでいた范増や、これまで共に闘ってきた鍾離眜周殷龍且将軍らを疑うようになった項羽は、范増進言聞き入れないようになり、次第范増権限奪ったため、范増辞職願い出項羽はこれを認めた范増病死した。 同年7月劉邦滎陽脱出し項羽はやっと滎陽を落とす。続いて成皋も包囲し劉邦脱出後に落城させるが、彭越後方撹乱行動によって西進阻まれる。項羽彭越撃破するが、劉邦は成皋を奪回し広武陣地布いた項羽また、広武に赴き、劉邦相対する項羽は、劉邦の父人質にとり、劉邦降伏うながすが、劉邦に「項羽兄弟となることを約束した。わしの父はお前の父である」と言われ降伏拒絶される項羽劉邦の父殺そうとしたが、項伯止められ断念する項羽と劉邦対峙続き項羽の軍は次第兵役補給疲れ果ててきた。項羽劉邦一騎打ち戦乱決着求めるが、断られる項羽は、楚軍勇士挑戦させるが、漢軍の楼煩3度まで射殺される項羽が自ら楼煩挑戦すると、楼煩はその目を合わせる逃亡し再度出てくることはなかった。 項羽は、劉邦広武山の間にある澗水へだてて語り合った劉邦は、項羽の罪を数え上げたその内容は以下のものであった。 「始與項羽受命懐王,曰先入關中者王之,項羽負約,王我於蜀漢,罪一。項羽矯殺卿子冠軍自尊,罪二。項羽已救趙,當還報,而擅劫諸侯入關,罪三。懐王約入秦無暴掠項羽燒秦宮室,掘始皇帝冢,私收其財物,罪四。又彊殺秦降王子嬰,罪五。詐阬秦子弟新安二十,王其將,罪六。項羽皆王諸將善地,而徙逐故主,令臣下叛逆,罪七。項羽出逐義帝彭城,自都之,奪韓王地,并王梁,多自予,罪八。項羽使人陰弑義帝江南,罪九。夫為人臣而弑其主,殺已降為政不平,主約不信天下不容大逆無道,罪十也。吾以義兵諸侯残賊,使刑餘罪人撃殺項羽,何苦乃與公挑戰! (私が)はじめに項羽一緒に先に関中入ったものを王とする」という懐王命令受けたのに、項羽約束破り、私を蜀漢の王とした。罪の第一である。 項羽は(懐王命令偽って)、卿子冠軍宋義)を殺して自分上将軍という尊い地位についた。罪の第二である。 項羽が趙を救ったからには、(懐王元にもどって報告するべきである。しかし、(現実は)ほしいままに諸侯や兵を脅して関中入った。罪の第三である。 懐王は、「秦(の土地)に入ったら、暴虐略奪してはいけない」と(項羽に)約したのに、項羽は秦の宮室焼き皇帝の墓を掘り、その財物納めて自分のものとした。罪の第四である。 また、無理に降伏した秦王子嬰殺した。罪の第五である。 だまして、秦の子弟・20万人生埋めにして、その将軍章邯司馬欣董翳のこと)を王とした。罪の第六である。 項羽は(自分とともに戦った諸将を皆、良い土地の王とし、元の君主追い出して臣下争って(元の君主に)反逆させるように仕向けた。罪の第七である。 項羽は、義帝彭城より追い出して彭城を自らの都とし、韓王土地奪い(の土地を)併合して多く自分(の土地として)に与えた。罪の第八である。 項羽は、人を使って義帝江南において弑逆し、殺した。罪の第九である。 人臣ありながら君主を弑殺し降伏したものを殺し不公平な政治行い盟約の主でありながら、まことではない。(項羽は)天下許されないところであり、大逆無道である。罪の第十である。 私は、義兵をもって諸侯従え残虐な賊を誅するに、刑罰受けた罪人仕向けて項羽打ち殺そう考えている。何を苦しんで君に挑み戦うことがあろうか! 項羽は、一騎打ちでの決着劉邦求めたが、劉邦聞き入れなかった。項羽隠し持った弩で劉邦射た劉邦負傷して、成皋に逃亡した。 漢4年紀元前203年11月項羽は漢に攻撃された斉の援軍として龍且派遣するが、龍且韓信戦い戦死するまた、彭越反して土地占領し項羽軍勢糧道絶つ項羽はそのため、大司馬曹咎打って出ないよう注意した上で、成皋を任せて彭越討伐に向かう。 項羽は東に向かい外黄県が数日にわたり抵抗して降伏しなかったので、15歳上の男子を全て生埋めにしようとした。この時、外黄県令舎人の子にあたる13歳少年が、「外黄の人は、彭越無理に脅されただけです。大王項羽)が皆を生埋めにすれば土地は(項羽生き埋めにされることを恐れて降伏しないでしょう」と進言すると、項羽同意して外黄人々許した。これを聞いて土地は)みな争って降伏した。 しかし、成皋にいた曹咎項羽命令反して城を出て漢軍を攻撃し敗北した曹咎自殺し楚軍財貨全て奪われた。項羽引き返して滎陽の東で包囲されていた鍾離眜救い、漢軍と対峙する項羽軍勢疲れ兵糧欠乏していることに対し、漢軍は軍勢が盛んで兵糧多かった

※この「楚漢戦争」の解説は、「項羽」の解説の一部です。
「楚漢戦争」を含む「項羽」の記事については、「項羽」の概要を参照ください。

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