楚漢戦争勃発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 03:54 UTC 版)
紀元前206年、まず田栄が田都を殺して自ら斉王になった。そして、のちに劉邦に付いて活躍した彭越を将軍として軍を派遣し、済陰を攻撃させた。 かつて張耳の同志であった陳余は、秦によって趙が攻められて張耳が籠城したときに救援しなかったことで仲違いしており、項羽から何も与えられなかったことを不満に思っていた。そこで陳余は張耳を攻めて趙を占領し、元の趙王である趙歇を迎えて趙王にした。この功績で陳余は趙歇より代王とされた。敗れた張耳は逃れて劉邦の下へ奔った。 そして紀元前205年、項羽の最大の敵である劉邦が漢中より出て、関中を陥れた。 項羽は大いに怒ったものの、まずどれを討つべきかを迷った。しかし劉邦から「項羽と敵対するつもりはない」という手紙が来たので、まず斉を討つことに決めた。田栄は抵抗したものの項羽に敗れ、逃亡したところを農民によって殺された。しかし項羽はこれで満足せず、斉の城を次々と落とし、捕虜を穴埋めにし、各地を焼いて回った。このため斉の民衆は怒って項羽に反抗し、さらに田栄の弟の田横が斉の残兵を集めて抵抗したので、平定することが出来なかった。 項羽が斉で苦戦していることを見た劉邦は、諸侯との連合軍56万人を率いて項羽の本拠の彭城を陥落させた。このことで劉邦と諸侯軍は増長して軍律が乱れ、連日城内で宴会を開き、略奪を行い、女に乱暴する、という状態になった。このことを聞いた項羽は激怒し、自らが選んだ精兵3万のみを引き連れて彭城へと戻り、油断していた劉邦たちを散々に打ち破った(彭城の戦い)。 紀元前204年、劉邦は何とか逃げ出して滎陽(現在の河南省滎陽市)にて篭城し、項羽軍もこれを追撃して滎陽に至った(滎陽の戦い)。その間に、斉では田横が田栄の子である田広を立てて斉王とし、斉一帯を制圧した。 劉邦は追い詰められたが、陳平や紀信の策を用いて脱出し、関中に戻ると蕭何の用意した兵士や物資で体勢を立て直した。この時に英布を自らの陣営に取り込むことにも成功している。
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