楚討伐と漢中郡設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:22 UTC 版)
「恵文王 (秦)」の記事における「楚討伐と漢中郡設置」の解説
そして紀元前312年、楚が張儀の策謀に嵌って秦に攻め込んで来た時には丹陽(現在の河南省南陽市淅川県)で返り討ちにし、逆に楚の漢中地方に攻め入り、その地に漢中郡を設置する。その後、楚が再び侵攻して来た際には、咸陽に近い藍田(現在の陝西省西安市藍田県)の地で撃破して、楚衰亡の端緒を作り出す(藍田の戦い)。 翌年に死去。商鞅を憎みながらもその法は保持した事は、同じく国政改革の旗手であった呉起を殺害した楚がその後、呉起の改革の成果を破棄した事と比べて高い評価がある。また巴蜀や漢中を併合した事は、秦が最強国となった要因の一つと評価される。
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