楚辺地区の強制接収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 02:11 UTC 版)
「トリイステーション」の記事における「楚辺地区の強制接収」の解説
1943年、楚辺地区は5つの各組に発動機を用いた共同製糖工場サーターヤーを持つ大きな集落であった。夏頃、日本軍による北飛行場 (読谷飛行場) 建設が始まり、楚辺の海岸壁にもトーチカが構築され、演習なども行われていたが、米軍上陸前には、すでに日本軍は飛行場を自壊し主力部隊は撤退していた。 1945年4月1日、沖縄戦で日本軍の読谷飛行場や嘉手納飛行場をめざす米軍上陸地となり、すさまじい艦砲射撃が集落を破壊した後、占領された。現在、トリイステーション北西角のユウバンタに「艦砲ぬ喰ぇ残さー」の記念碑が建っている。米軍は楚辺に臨時の収容所 (楚辺収容所) を設置し、臨時の野戦病院 (登殿内旧屋敷跡) も開設した。米軍は楚辺の臨時収容所を短期で閉鎖し、住民をその他の沖縄の収容所地区に移送して、読谷村全村を軍事施設として利用した。楚辺と西側海岸一帯は兵站部隊の物資集積場 (Quarter Master Depot / Dump) として使用された。楚辺地区の住民に帰村が許されたのは1947年になってからのことだった。 1947 年、楚辺地区が解放され帰村が始まる。旧楚辺地区の収容者の内、約300人の青年会が復興作業と治安維持のため結成され、復1948年に楚辺地区の行政が復活した。楚辺のエイサーや年中行事も再開され、沖縄戦で荒廃した家屋や土地の開墾、ならびに学校などの整備等が進んだ。 1951年5月、なんとか復興の兆しがみえる頃になって、米国民政府から突如として「楚辺トリイ・ステーション」建設のための立退き命令が通達された。度重なる住民側の陳情にもかかわらず、12 月には工事が着手され、住民はやむなく米国民政府が指定する北側の土地に移住を余儀なくされた。これが現在の新「楚辺地区」である。 1952年1月、移転居住地を集落北側の耕地に移すこととし、旧集落の5つの組を4班に再区分し、2月に移動対策委員会の計画にもとづき移動が開始され、5 月に集落の移動が完了した。 現在も旧楚辺地区はトリイステーションの内側にある。 古代の遺跡 楚辺は古くからの歴史を持つ集落で、村内で確認されている遺跡71か所 (2018年4月現在) のうち21 の遺跡が楚辺地区に位置し、とりわけトリイステーション施設内に数多くある。これまでの調査から縄文時代後期・晩期 (3500~ 2500年前) から弥生時代相当期、グスク時代、近世、近代・沖縄戦前までの様々な時代の遺跡が歴史的に重層していることがわかっている。タシーモー北方遺跡では、12の掘立柱建物遺構や鉄加工関連の遺物が出土した。ウガンヒラー北方遺跡では粟、麦、米などの穀物が栽培され倉庫に蓄えていたことがわかっている。 基地のなかの聖地 楚辺には多くの聖地が所在し、特に7つの拝所 (ウガンヒラー、トゥンチヤー、イーガー、クラガー、ウカー、メーチンシ、クミンドー) すべてがトリイステーションのなかにある。楚辺自治会は、定期的に清掃を行い大切に継承している。
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