韓信の躍進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 03:54 UTC 版)
同じ頃、劉邦の将軍である韓信は、劉邦から離反した西魏を攻め、これを下して王の魏豹を廃して庶人とした。次に劉邦の命により代を下し、さらに趙へと攻め込んだ。この時の韓信の兵力はわずか2万であったが、独創的な戦術(背水の陣)で20万と号した趙軍を半日で打ち破って趙を占領、趙王歇と代王陳余を処刑して、張耳を趙王とした(井陘の戦い)。その後、趙の降将である李左車の策を容れて、燕王臧荼を降伏させることにも成功する。 紀元前203年、劉邦は韓信に対して斉を討つように命令した。ところがその後で、劉邦は儒者の酈食其を派遣して斉との和平交渉を行わせ、斉もこれに応じた。韓信は斉との国境付近まで来てこれを知ったが、謀士の蒯通に「これでは弁士の功績が将軍の功績を上回ってしまうことになる」と唆されて斉へ攻め込み、これを占領した。酈食其は怒った斉王田広と宰相田横により、釜茹でにされた。 逃れた田広たちは楚に救援を求め、楚は将軍龍且を派遣するが、韓信はこれをも破った(濰水の戦い)。これらの功績により韓信の名声は非常に高まり、韓信は劉邦に自らを斉王にするように要請して、これを認められた。ここに至り、韓信は劉邦の将軍というよりも一つの独立勢力としての立場を築くことになった。項羽もこれを恐れるようになり、武渉という者を派遣して韓信を自分の方へと引き込もうとしたが、韓信はかつて項羽軍にいた時に冷遇されていたことを覚えていたのでこれを断る。 蒯通は韓信に対し、自立して天下を三分するべきだと説いたが、韓信は悩んだ末に劉邦への恩義を選び、蒯通は後難を恐れ、発狂した振りをして逃げ出した。
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