韓侂冑時代
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孝宗は淳熙16年(1189年)に退位して上皇となり、光宗が即位するが、光宗は父に似ず愚鈍であり、慈懿皇后の言いなりになっていた。この皇帝に不満を持った宰相趙汝愚・韓侂冑などにより光宗は退位させられた。韓侂冑はこの功績により権力の座に近づけると思っていたが、韓侂冑の人格を好まない趙汝愚たちは韓侂冑を遠ざけた。これに恨みを持った韓侂冑は趙汝愚たちの追い落とし運動を行い、慶元元年(1195年)、趙汝愚は宰相職から追われ、慶元3年(1197年)には趙汝愚に与した周必大・留正・王藺・朱熹・彭亀年ら59人が禁錮に処せられた。慶元4年(1198年)には朱熹の朱子学(当時は道学と呼ばれる)も偽学として弾圧された(慶元偽学の禁)。この一連の事件を慶元の党禁という。 韓侂冑はその後も10年ほど権力を保つが、後ろ盾になっていた恭淑皇后と慈懿皇太后が相次いで死去したことで権力にかげりが出てきた。おりしも金が更に北方のタタールなどの侵入に悩まされており、金が弱体化していると見た韓侂冑は、南宋の悲願である金打倒を成し遂げれば権力の座は不動であると考え、開禧2年(1206年)に北伐の軍を起こす(開禧の北伐)。 しかしこの北伐は失敗に終わる。実際に金は苦しんでいたが、それ以上に南宋軍の弱体化が顕著であった。開禧3年(1207年)、金は早期和平を望んで韓侂冑の首を要求した。それを聞いた礼部侍郎の史弥遠により韓侂冑は殺され、首は塩漬けにされて金に送られ、翌年の嘉定元年(1208年)に再び和議がもたれた(嘉定の和議)。
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