韓侂冑時代とは? わかりやすく解説

韓侂冑時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:21 UTC 版)

南宋」の記事における「韓侂冑時代」の解説

孝宗淳熙16年1189年)に退位し上皇となり、光宗即位するが、光宗は父に似ず愚鈍であり、慈懿皇后言いなりになっていた。この皇帝に不満を持った宰相趙汝愚韓侂冑などにより光宗退位させられた。韓侂冑はこの功績により権力の座近づける思っていたが、韓侂冑人格好まない趙汝愚たちは韓侂冑遠ざけた。これに恨み持った韓侂冑趙汝愚たちの追い落とし運動行い慶元元年1195年)、趙汝愚宰相職から追われ慶元3年1197年)には趙汝愚与した周必大・留正・王朱熹・彭亀年ら59人が禁錮処せられた。慶元4年1198年)には朱熹朱子学当時道学呼ばれる)も偽学として弾圧された(慶元偽学の禁)。この一連の事件慶元の党禁という。 韓侂冑その後10年ほど権力を保つが、後ろ盾になっていた恭淑皇后と慈懿皇太后相次いで死去したことで権力にかげりが出てきた。おりしも金が更に北方タタールなどの侵入悩まされており、金が弱体化していると見た韓侂冑は、南宋悲願である金打倒を成し遂げれば権力の座不動であると考え開禧2年1206年)に北伐の軍を起こす開禧の北伐)。 しかしこの北伐失敗に終わる。実際に金は苦しんでいたが、それ以上南宋軍の弱体化顕著であった開禧3年1207年)、金は早期和平望んで韓侂冑の首を要求した。それを聞いた礼部侍郎史弥遠により韓侂冑殺され、首は塩漬けにされて金に送られ翌年嘉定元年1208年)に再び和議もたれた嘉定和議)。

※この「韓侂冑時代」の解説は、「南宋」の解説の一部です。
「韓侂冑時代」を含む「南宋」の記事については、「南宋」の概要を参照ください。

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