背水の陣
「背水の陣」とは、失敗すれば絶対に助かることはないという追い詰められた状況のことを意味する表現。
「背水の陣」とは・「背水の陣」の意味
「背水の陣」とは、河や沼のほとりなどの、もうあとへは一歩もひけない場所に陣を敷くことである。そのような追い詰められた状況であれば、兵は助かるために、必死になって戦うものである。そこから、自分の身を逆境に追い込んで、全力をふりしぼって頑張るという意味で使われるようになった。この言葉は、日常生活の中でも使われるポピュラーな故事成語である。あることに取り組む際に、相当の覚悟を持っていることを伝えたい場面でしばしば使われる。「ぼくは、一番行きたい大学1校しか受験しません。背水の陣です。」や「このプロジェクトを成功させるために、背水の陣でがんばります。」などの用例がある。ところで、三国志の中に、諸葛孔明が曹操の軍に立ち向かう際に、背水の陣を敷く場面がある。曹操は、諸葛孔明ほどの者が、ただ捨て身になってそのようなことをするはずはないと考える。きっと罠があるにちがいないと考えるのである。そして、攻めることができなかった。その結果、孔明に敗れてしまう。このあと、孔明は、「曹操は、背水の陣という兵法を知っていたからこそ、考えすぎて判断を誤ったのだ。敵もこちらと同じくらいの知識がないと計略に陥れるのは難しいものだ。」というような内容のことを語った。
しかし、「背水の陣」の本当の意味は、あくまで「もう後へ引くことのできない逆境に自分を追い込んで、必死になってがんばる」ということである。曹操は、孔明が無策でそのようなことをするはずがないと勘繰り、孔明に陥れられてしまったのだ。
「背水の陣」の語源・由来
「背水の陣」は、韓信という知将の故事をもとにして作られた故事成語である。ちなみに、「故事」とは、古くから伝わってきている事柄やお話のことである。「背水の陣」のもととされている故事は、「史記」という中国の歴史書に書かれている。ある時、韓信の軍が敵軍に追い詰められた。敵軍は、韓信の軍よりはるかに規模が大きく、兵の数は、韓信の軍よりはるかに多かった。多勢に無勢である。その時、韓信は、河を背にして戦うことを決意する。河を背にして戦うなどということは、退路がなくなってしまうということであり、当時の戦の常識としてはありえなかった。しかし、退路がなくなれば、兵は必死になって戦うものであるということを韓信は知っていたのだ。結果として、兵が死に物狂いになって戦った韓信の軍が、勝利をおさめることができた。「背水の陣」は、この故事に由来している。ここで、「水」は、「河」という意味で使われている。
「背水の陣」の使い方・例文
・背水の陣の覚悟で、死に物狂いで戦った結果、現役最後の試合に勝つことができた。・味方のいなくなったぼくに、敵のボスが「背水の陣だな」と言いながらあざ笑ってきた。それでもぼくはあきらめなかった。
・背水の陣の決意をして、彼はその仕事に取り組んだ。
・背水の陣の気持ちで取り組めば、解決できないことなどありはしない。
・背水の陣と言っても、韓信も情報収集は必死でしていたはずだ。
・今や負けてしまいそうな状況だが、ここまできたら背水の陣だ。最後の瞬間までふんばるぞ。
・不利な状況の時でも、背水の陣の心で死に物狂いでがんばれば、道は絶対にひらけると信じたい。
・芸人を志してもう5年になる。今年売れなかったらきっぱりあきらめよう。そうと決めたからには、背水の陣で精一杯がんばろうと思う。
・もし今月も売り上げが伸びなかったなら、店を畳まなければならない。妻や子もいるのだから、背水の陣でがんばるしかない。
・来月には、英語の検定試験がある。英語は苦手だが、会社に残るためには合格しなければならない。背水の陣で勉強するぞ。
背水(はいすい)の陣(じん)
背水の陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:19 UTC 版)
「ラジアータ ストーリーズ」の記事における「背水の陣」の解説
少しの間、仲間全員の攻撃力が大幅上昇し、代わりに防御力が0になる。HP残量の少ない仲間には効果がない。
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背水の陣
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詳細は「井陘の戦い#背水の陣」を参照 必敗の陣形である、手取川の戦いにおける柴田勝家、淝水の戦いにおける苻堅など歴史上多くの将がこの陣を取って、取らされて敗れている。ただ唯一、楚漢戦争時に韓信が擬態としてこの陣形を取り、別動隊への注意をそらすことに成功して勝利した。 漢の劉邦に仕えていた韓信は兵力20万人の趙を約3万の兵で攻略しなければならないという難局に臨んだ。韓信は少ない兵力で勝つために、少ない上に更に川を背にして布陣し、兵法に疎い少数の軍が攻撃してきたように見せかけた。これは兵法道理に趙軍の総攻撃を誘い、空となった城と備蓄を別動隊が占領し韓信が勝利した。韓信の背水の陣軍が壊滅しなかったのは、敵が大軍であればあるほど、逆に、しばらく持ちこたえれば自軍が勝利することを知っていたから奮戦できたのである。 ところが通俗ではこの重要な戦略が伝わらず、戦術の定石を敢えて無視し、軍団を逃げ場の無い川の前に布陣させ、兵が逃げ場が無く、陣形の再構築もできないことを悟ることで決死の覚悟で奮戦する為に勝利すると誤解され、あえて自らを窮地に置き、最大限に力を発揮させようとする事を背水の陣と言うようになった。
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背水の陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 10:23 UTC 版)
「天地を喰らうII 諸葛孔明伝」の記事における「背水の陣」の解説
攻撃力の上昇率、守備力の低下率とも最大である。水辺でしか布陣することができない。
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背水の陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:29 UTC 版)
「故事#背水の陣」も参照 井陘口を抜けた韓信軍は、河を背にして布陣し城壁を築いた。『尉繚子』天官編に「背水陳為絶地」(水を背にして陳(陣)すれば絶地(死に場所)となる)とある。水を前にして山を背に陣を張るのが布陣の基本であり、これを見た趙軍は「韓信は兵法の初歩も知らない」と笑い、兵力差をもって一気に攻め滅ぼそうとほぼ全軍を率いて出撃、韓信軍に攻めかかった。 韓信は初め迎撃に出て負けた振りをしてこれをおびき寄せ、河岸の陣にて趙軍を迎え撃った。趙の城に残っていた兵も、味方の優勢と殲滅の好機を見て、そのほとんどが攻勢に参加した。兵力では趙軍が圧倒的に上であったが、後に逃げ道のない漢の兵士たちは必死で戦ったので、趙軍は打ち破ることができなかった。 趙軍は韓信軍、さらに河岸の陣ごとき容易に破れると思いきや、攻めあぐね被害も増えてきたので嫌気し、いったん城へ引くことにした。ところが城の近くまで戻ってみると、そこには大量の漢の旗が立っていた。城にはごくわずかな兵しか残っておらず、趙軍が韓信軍と戦っている隙に支隊が攻め落としたのである。大量にはためく漢の旗を見て趙兵たちは「漢の大軍に城が落とされている」と動揺して逃亡を始め、さらに韓信の本隊が後ろから攻めかかってきたので、挟撃の恐怖にかられた趙軍は総崩れとなり敗れた。 陳余は張蒼によって捕虜となり、泜水で処刑され、逃亡した趙歇も襄国(現在の河北省邢台市信都区)で捕らえられて処刑された。また李左車は韓信によって捕らわれるが、韓信は上座を用意して李左車を先生と賞し、燕を下す策を献じてもらった。そして李左車の策に従い燕を労せず下すことに成功した。ちなみに、韓信に尋ねられた李左車は、初め自分の考えを述べることに躊躇したが、そのときに彼が放った「敗軍の将、兵を語らず」(『史記』淮陰侯列伝)という言葉は有名である。 後にこの布陣でなぜ勝てたのかと聞かれた韓信は、「私は兵法書に書いてある通りにしただけだ。即ち『兵は死地において初めて生きる(「之れを往く所無きに投ずれば、諸・劌の勇なり(兵士たちをどこにも行き場のない窮地に置けば、おのずと専諸や曹沬(曹劌)のように勇戦力闘する)」『孫子』九地篇)』」と答えている。これが背水の陣である。 現在でも「背水の陣」は、退路を断ち(あるいは絶たれ)決死の覚悟を持って事にあたるという意味の故事成語となっているが、韓信はそれだけでなくわざと自軍を侮らせて敵軍を城の外へ誘い出し(調虎離山)、背水の陣で負けない一方、空にさせた城を落とし、敵の動揺を突いて襲撃し勝機を逃さない、と最終的に勝つための方策も行っているのである。 城塞に籠った場合、兵力が少なくても突破されないし、瞬時の相対する兵力は互角以上である。これに城壁の優位性と兵の死力が加われば、兵力差が絶大でも相当戦うことができる。しかし相手が自軍を侮らず普通に攻め続ければさすがにいつか落ちるから、相手が嫌気して引き返すことも当初から意中にあったのであろう。 これが単なる賭けではない点は、事前に間者を多く放ち情報収集しているところにも見ることができる。韓信が希代の名将と言われるゆえんである。
※この「背水の陣」の解説は、「井陘の戦い」の解説の一部です。
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背水の陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 00:08 UTC 版)
その後、韓信と張耳率いる漢の討伐軍が、魏と代を制圧した後に趙へ攻め込んできた。漢軍は細い間道を通って攻めてきたことを知った広武君李左車は背後を攻めるよう進言するが、陳余は趙軍は20万もおり、正攻法で打ち破らなければ他国に笑われると取り合わなかった。 陳余と張耳はついに敵軍同士として対峙することになった(井陘の戦い)。韓信は川を背に砦を組み、20万の趙の軍勢と戦った。劣勢の漢軍は押されて砦に逃げ込んだが、退路がないため死にものぐるいで抵抗し、攻めあぐねた趙軍はいったん城へ戻ることにした。だが、そのときには伏せていた2千の漢軍の別働隊が城を占拠しており、前後に敵を受け拠点も失った趙軍は混乱して四散し、大敗した。陳余は張蒼によって捕らえられて泜水で処刑され、張耳は趙王に即位した。
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背水の陣
出典:『Wiktionary』 (2018/03/31 23:34 UTC 版)
成句
出典
- 【白文】信乃使萬人先行、出背水陣(「陳」とするテキストが多数)。趙軍望見而大笑。
- 【訓読文】 信乃ち萬人をして先行し、出でて水を背にして陣せしむ。趙軍望み見て大いに笑う。
- 【語釈】韓信は、一万の兵を先行させ、(井陘を)出て、川を背にして陣構えさせた。趙軍はこれを遠くに見て、(その無謀さに、又は、戦を知らないことに)大いに笑った。
- 【解説】漢の将軍韓信が趙軍と戦ったときに、兵の退路を断って死にものぐるいの戦いをさせたことに因む。実際は、谷間の口(井陘)の前に陣取り、一斉攻撃できないようにし、時間を稼いだところで、別働隊が空になった相手の本拠地を襲い、挟み撃ちにしたもの。
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