飛将軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 05:32 UTC 版)
飛将軍または飛将とは、「行動が素早く、勇敢な将兵」を意味する言葉であり[1]、以下の事柄を表す。
- 前漢時代の将軍である李広のあだ名。匈奴がこう呼び恐れたとされており、この語の語源になった[1]。
- 『三国志』の呂布:“布便弓馬,號曰飛將”。腕力が常人よりも遥かに強く、弓術・馬術にも秀でていたため、前漢の李広になぞらえて飛将と呼ばれた。
- 『新唐書.李密傳』では単雄信:“単雄信,曹州濟陰人。與翟讓友善。能馬上用槍,密軍中號飛將。”騎兵突撃用の長槍(槊)を用いるのを得意として「飛将」と号された。
- 中華民国陸軍の中将であった孫元良のあだ名。防衛作戦実行中に脱走したこと揶揄している。
- 軍のパイロットを表す中国語の通称。
脚注
飛将軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 16:00 UTC 版)
姓名李広 時代前漢時代 生没年生年不詳 - 紀元前119年(元狩4年) 字・別号漢の飛将軍(綽名) 本貫・出身地等涼州隴西郡成紀県 職官漢中郎〔前漢〕→武騎常侍〔前漢〕→隴西都尉〔前漢〕→騎郎将〔前漢〕→驍騎都尉〔前漢〕→上谷太守〔前漢〕 →上郡太守〔前漢〕→隴西太守〔前漢〕→北地太守〔前漢〕→雁門太守〔前漢〕→代郡太守〔前漢〕→雲中太守〔前漢〕→上郡太守〔前漢〕→未央衛尉〔前漢〕→驍騎将軍〔前漢〕→右北平太守〔前漢〕 →郎中令〔前漢〕→後将軍〔前漢〕 →郎中令〔前漢〕→前将軍〔前漢〕 爵位・号等- 陣営・所属等文帝→景帝→武帝 家族・一族子:李当戸 李椒 李敢孫:李陵 李禹一族:李蔡〔従弟〕 紀元前166年、匈奴征伐に功があり、郎となり文帝の側に騎士として仕えた。狩猟に付き従った際に猛獣を接近戦で殺すという武勇を見せ、それを見た文帝に「君が高祖の時代に生まれていれば1万戸の侯にもなれたであろうなあ……」と言わしめた。 景帝の時代には驍騎都尉に任ぜられ、周亜夫の下で呉楚七国の乱を鎮圧する功績を立てた。ただし、梁王劉武の将軍に任じられていたため、漢からは恩賞を受けられなかった。 後に上谷太守、上郡太守となった。その時に10倍の匈奴軍に囲まれたことがあったが、わざとゆっくり後退し伏兵があるように見せかけたため、匈奴軍は追わずに引き揚げた。その後、隴西、北地、雁門、雲中の太守(いずれも漢の北辺で匈奴に近い)を歴任する。この頃には匈奴から「飛将軍」と怖れられていた。のちに武勇に優れた武将は李広になぞらえ飛将軍と呼ばれることがあり、後漢末期の武将の呂布も飛将軍と呼ばれた。
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