申陽とは? わかりやすく解説

申陽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 07:41 UTC 版)

申 陽(しん よう、生没年不詳)は、末期から楚漢戦争期にかけての武将。瑕丘(現在の山東省済寧市兗州区)の人。

申陽

はじめは趙王武臣の配下で、瑕丘侯に封じられた。まもなく、武臣が配下の李良に弑されると、張耳の配下となり重用された。

紀元前207年秋7月に張耳の命で河南地方を占領して、項羽率いるの軍勢を出迎えた。

その後は、項羽に従軍した張耳に同伴して、咸陽まで向かった。翌紀元前206年春1月に項羽が秦を滅ぼすと、申陽は河南地方を中心とした河南王に封じられた。

しかし、同年冬10月に漢王劉邦が、韓信を得て関中漢中)から河南国を攻略すると、申陽は司馬卬とともにそのまま劉邦に降った。劉邦は河南地方を河南郡に改称して、漢の直轄地とした。

紀元前205年に、他の諸侯の軍勢とともに、項羽の居城の彭城に向かったが、以降の申陽の動向は不詳である。

通俗小説の『通俗漢楚軍談』によると、睢水の戦いで項羽に討ち取られるということになっている。

参考文献


申陽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 08:21 UTC 版)

項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)」の記事における「申陽」の解説

河南王で、陸賈旧主君。劉邦の命で陸賈が申陽に帰順すべく説得するが、項羽恩義持っている申陽はこれを拒否する陸賈は申陽が自分留守の間家族庇護していたことへの恩義もあり、それ以上説得できず、使命忘れて再び申陽の傍ら仕えることになる。まもなく張良策略陸賈とともに捕らえられ劉邦帰順する。睢水の合戦項羽討ち取られる司馬卬同様に武臣張耳武将であったことは触れていない。

※この「申陽」の解説は、「項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)」の解説の一部です。
「申陽」を含む「項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)」の記事については、「項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「申陽」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「申陽」の関連用語

申陽のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



申陽のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの申陽 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの項羽と劉邦 (横山光輝の漫画) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS