史書の再登場に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:49 UTC 版)
同年7月、劉邦は宛を攻めて、南陽郡を降伏させ、その郡守である呂齮 を殷侯に封じた。 章邯率いる秦軍は、項羽率いる楚軍に降伏することを伝え、殷墟において開盟した。項羽はこれを受け入れ、章邯は雍王に封じられた。 趙に仕えていた張耳の側近であり、楚の将となった申陽が洛陽や滎陽が存在する河南(三川郡)の土地を攻略し、(河南の地を守る秦軍は)楚に降伏した。 大櫛敦弘は、「申陽がどのようにしてこの難攻不落の(三川)郡を降したかについては、まったく記録が残されてはいないが、秦の主力である章邯の軍がこの月(7月)に項羽に降伏したことと、おそらくは無関係ではないであろう。(中略)三川で反乱鎮圧に当たっていた秦軍は、河北での主力軍の降伏をうけて、もはや関中の「防波堤」としての機能を果たすことなく、そのまま反乱軍に投降したのではないかと推測されるのである」としている。 同年8月、秦の咸陽において、趙高が秦の二世皇帝である胡亥を自殺に追い込んだ。 劉邦が咸陽の南にある武関を打ち破る。 同年9月、子嬰が秦王に即位して、趙高を殺害する。 高祖元年(紀元前206年)10月、子嬰が劉邦に降伏し、秦が滅ぶ。 同年12月、項羽が函谷関を突破して、関中に入り、子嬰を殺害し、咸陽を略奪する。 項羽によって、秦は4つに分けられ、雍王に章邯、塞王に司馬欣、翟王に董翳、漢王に劉邦が封じられる。 同年4月、項羽に封じられた諸将は、項羽・章邯・司馬欣・董翳・劉邦も含めて封じられた国へと向かう。 同年8月、劉邦は故道を通って、雍王・章邯を攻撃し、陳倉にて勝利した。劉邦軍は、好畤でも勝利し、章邯は雍国の都である廃丘に敗走した。章邯の弟である章平も好畤に籠ったが、包囲されて、脱出して敗走した。
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