呂齮
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呂 齮(りょ ぎ、生没年不詳)は、秦末の官僚で、南陽郡の郡守をつとめたが、劉邦に降伏した。『史記』と『漢書』には姓の記載はなく、「齮」と名があるのみであるが、『漢紀』に姓が記載されている[1][2][3]。
- ^ 『漢紀』高祖皇帝紀第一
- ^ 以下、特に注釈がない部分は、『史記』秦楚之際月表第四・高祖本紀による。
- ^ 年号は『史記』秦楚之際月表第四による。西暦でも表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。まだ、秦代では正月を端月とする。
- ^ 後9月は、顓頊暦における閏月。
- ^ a b c 『史記』曹相国世家
- ^ a b 『史記』留侯世家
- ^ 大櫛敦弘 2009, p. 35.
- ^ a b 『史記』樊酈滕灌列伝
- ^ (佐竹靖彦 2005, p. 294)は、「かれ(劉邦)が軍事常識を無視し、背後に有力な敵対勢力を残したまま武関攻撃に向かおうとしたことは、逆にいえば、趙地における章邯の降伏の情報が秦軍に伝わっており、秦軍がなかば解体状態にあったことを示している。もしそうでなければ、いくら楽観的な劉邦でも、このような判断を下すわけがないからである」としている。
- ^ (佐竹靖彦 2005, p. 294)は、「このときすでに章邯は項羽に降伏しており、南陽郡守(呂)齮もその知らせを聞いて絶望していたのであろう」としている。
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