鹿を謂いて馬となす
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二世三年(紀元前207年)10月、章邯が趙の邯鄲を破り、住民を河内に移住させた。 冬、李斯が刑死したため、胡亥は趙高を中丞相に任命した。諸事の大小となく、全て趙高が決裁することとなった。 同年12月、楚軍を率いる項羽が趙を救援し、鉅鹿を囲む秦軍を大破して、秦軍の包囲を解いた。魏・趙・斉・燕の諸侯の軍は項羽に属することになった(鉅鹿の戦い)。 同年1月、項羽率いる諸侯連合軍によって一気に攻められ、秦軍を率いる王離が捕らえられる。 同年2月、項羽率いる諸侯連合軍によって、秦軍を率いる章邯が破られる。章邯の軍は退却した。 同年3月、楚軍の劉邦が趙賁の軍を破り、開封を攻め、さらに、秦将の楊熊を破った。楊熊は滎陽へ敗走した。胡亥は、使者を派遣して、楊熊を処刑にして見せしめにした。 同年4月、項羽率いる楚軍は一気に章邯を攻めた。章邯は戦ったが、しばしば退却した。胡亥は使者を派遣して、章邯を責めた。章邯は恐れて、司馬欣を咸陽に派遣して、指示を仰ぎ、援軍を請わせた。趙高は司馬欣を会おうとせず、(章邯の言い分を)信じずに、章邯を責めた。 同年5月、趙高が司馬欣を捕らえて処刑しようとしたため、司馬欣は恐れて逃亡した。司馬欣は秦に対して、反するように章邯に進言する。 同年6月、章邯は項羽率いる楚への降伏を交渉し、交渉中に項羽は秦軍を攻撃して打ち破った。 同年7月、章邯率いる秦軍は、項羽率いる楚軍に降伏することを伝え、殷墟において開盟した。項羽によって、章邯は雍王に封じられた。 劉邦は宛を攻めて、南陽郡を降伏させ、その郡守である呂齮 を殷侯に封じた。 同年8月、これより以前、趙高は「関東の盗賊は何もできない」と何度も言っていた。しかし、秦軍が敗北し、函谷関より東は秦の役人に反して、諸侯に呼応し、西の咸陽へ向かってきていることを伝わってきた。 趙高は謀反を起こそうとして、群臣たちが謀反について聞き入れないことを恐れて、まずは試そうとした。そこで、趙高は鹿を胡亥に献上して言った。「馬です」。胡亥は笑って言った。「丞相(趙高)間違えたのか。鹿のことを馬とするとは(鹿を謂いて馬となす)」。胡亥が左右の家臣に問うと、ある者は沈黙し、ある者は趙高におもねり従い、『馬』と言い、ある者は『鹿』と言った。そこで、趙高はひそかに『鹿』と答えた諸々の者たちを、法をあてて処罰した。これより後、群臣たちは趙高を恐れた。これが、いわゆる「指鹿為馬(鹿を指して馬となす)」の故事となる出来事であった。 章邯率いる秦軍が、項羽率いる諸侯の軍に正式に降伏した。 劉邦が数万人を率いて、秦の武関を攻めて、打ち破った。劉邦は使者を派遣して、趙高とひそかに意を通じ合わせてきた。
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