鹿を謂いて馬となすとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 鹿を謂いて馬となすの意味・解説 

鹿を謂いて馬となす

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:23 UTC 版)

胡亥」の記事における「鹿を謂いて馬となす」の解説

二世三年紀元前207年10月章邯が趙の邯鄲破り住民河内移住させた。 冬、李斯刑死したため胡亥趙高中丞相に任命した諸事大小となく、全て趙高決裁することとなった同年12月楚軍率い項羽が趙を救援し鉅鹿を囲む秦軍大破して秦軍包囲解いた。魏・趙・斉・燕の諸侯の軍は項羽属することになった鉅鹿の戦い)。 同年1月項羽率い諸侯連合軍によって一気攻められ秦軍率い王離捕らえられる同年2月項羽率い諸侯連合軍によって、秦軍率い章邯破られる章邯の軍は退却した同年3月楚軍劉邦趙賁の軍を破り開封攻め、さらに、秦将の楊熊破った楊熊滎陽敗走した胡亥は、使者派遣して楊熊処刑にして見せしめにした。 同年4月項羽率い楚軍一気章邯攻めた章邯戦ったが、しばしば退却した胡亥使者派遣して章邯責めた章邯恐れて司馬欣咸陽派遣して指示仰ぎ援軍を請わせた。趙高司馬欣会おうとせず、(章邯言い分を)信じずに、章邯責めた同年5月趙高司馬欣捕らえて処刑しようとしたため、司馬欣恐れて逃亡した司馬欣は秦に対して反するように章邯進言する同年6月章邯項羽率いへの降伏交渉し交渉中に項羽秦軍攻撃して打ち破った同年7月章邯率い秦軍は、項羽率い楚軍降伏することを伝え殷墟において開盟した。項羽によって、章邯は雍王に封じられた。 劉邦は宛を攻めて南陽郡降伏させ、その郡守である呂齮 を殷侯に封じた同年8月、これより以前趙高は「関東盗賊は何もできない」と何度も言っていた。しかし、秦軍敗北し函谷関より東は秦の役人反して諸侯呼応し、西の咸陽向かってきていることを伝わってきた。 趙高謀反起こそうとして、群臣たちが謀反について聞き入れないことを恐れて、まずは試そうとした。そこで、趙高は鹿を胡亥献上して言った。「馬です」。胡亥笑って言った。「丞相趙高間違えたのか。鹿のことを馬とするとは(鹿を謂いて馬となす)」。胡亥左右家臣に問うと、ある者は沈黙し、ある者は趙高におもねり従い、『馬』と言い、ある者は『鹿』と言った。そこで、趙高ひそかに『鹿』と答えた諸々の者たちを、法をあてて処罰した。これより後、群臣たちは趙高恐れた。これが、いわゆる指鹿為馬鹿を指して馬となす)」の故事となる出来事であった章邯率い秦軍が、項羽率い諸侯の軍に正式に降伏した劉邦数万人を率いて、秦の武関を攻めて打ち破った劉邦使者派遣して趙高ひそかに意を通じ合わせてきた。

※この「鹿を謂いて馬となす」の解説は、「胡亥」の解説の一部です。
「鹿を謂いて馬となす」を含む「胡亥」の記事については、「胡亥」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「鹿を謂いて馬となす」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鹿を謂いて馬となす」の関連用語

1
8% |||||

鹿を謂いて馬となすのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鹿を謂いて馬となすのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの胡亥 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS