胡亥
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胡亥(こがい、拼音: )は、秦朝の第2代皇帝。帝号は二世皇帝。現代中国語では秦二世とも称される。姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)。始皇帝の末子[1][2][3]。
- ^ 以下、特に注釈がない部分は、『史記』秦始皇本紀・六国年表第三・秦楚之際月表第四による。
- ^ 年号は『史記』六国年表第三・秦楚之際月表第四による。西暦でも表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。まだ、秦代では正月を端月とする。
- ^ 胡亥らに関する史記の記述が本紀・列伝・表など記述箇所が違う場合、大きく異なることがあるが、鶴間和幸は「このような矛盾は『史記』の記述ではよくあることだ。由来の異なる伝承をそのまま別個にとりあげているので、無理して矛盾を解消しない方がよい」と述べている。鶴間和幸『始皇帝陵と兵馬俑』126頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『史記』李斯列伝
- ^ 『史記』陳渉世家を注釈する『史記索隠』による。
- ^ 『史記』蒙恬列伝
- ^ a b 『史記』六国年表第三による。『史記』始皇本紀では、胡亥の兄の子、『史記』李斯列伝は、始皇帝の弟とする。
- ^ 『史記』劉敬叔孫通列伝
- ^ 『史記』始皇本紀では、二世二年(紀元前208年)冬とするが、ここでは『史記』秦楚之際月表による。
- ^ 『史記』始皇本紀では、二世二年(紀元前208年)9月(『史記』秦楚之際月表第四より)の項梁の死後の事件とするが、『史記』秦楚之際月表第四では同年8月頃(『史記』李斯列伝では同年7月以前)とする李由の生前の事件にあたる。そのため、『史記』始皇本紀の陳勝・魏咎の死後とする記述にのっとり、ここに記載する。
- ^ a b c 『史記』項羽本紀
- ^ 『史記』六国年表第三では、二世二年(紀元前208年)の出来事として、『将軍章邯、長史司馬欣、都尉董翳追楚兵至河』とする事件の次に、『誅丞相斯、去疾、将軍馮劫』という事件の記載させている。前者については、『史記』秦楚之際月表第四において、同年9月とする章邯らが項梁を破り、戦死させた事件のこととみなし、李斯ら刑死をその後に記述する。
- ^ 漢代においては、黥(いれずみ)・劓(鼻削ぎ)・宮(腐刑)・刖(足切り)・殺(死刑)とする。『漢書』刑法志
- ^ 李斯の刑死は、『史記』李斯列伝では、二世二年(紀元前208年)7月の事件とするが、『史記』秦楚之際月表第四では同年8月に李由は戦死しており、『史記』李斯列伝ではその後の事件とする。また、『史記』六国年表第三では、二世二年(紀元前208年)の事件とするが、『史記』始皇本紀では、二世三年(紀元前207年)の早くても11月の項羽による鉅鹿救援後の冬(10~12月)に李斯が刑死されたとする。
- ^ 『史記』張耳陳余列伝では、王離が鉅鹿を包囲したのは、章邯が趙の邯鄲を破り、住民を河内に移住させる後になるが、同じく『史記』張耳陳余列伝によると、王離は数か月に渡り、鉅鹿を攻めているため、仮にここにいれる。
- ^ 『史記』王翦白起列伝。
- ^ 『史記』高祖本紀。
- ^ 『史記』始皇本紀を注釈する『史記集解』による。
- ^ 『史記』滑稽列伝。
- ^ 工藤卓司『北京大学蔵西漢竹書『趙正書』における「秦」叙述』190-196頁
- ^ 『史記』始皇本紀に附された班固が後漢の明帝に奉じた文に記載。
- ^ 工藤卓司『北京大学蔵西漢竹書『趙正書』における「秦」叙述』196頁
- ^ 鶴間和幸『人間・始皇帝』211・212頁
- ^ 鶴間和幸『人間・始皇帝』201・202頁、211頁
- ^ 藤田勝久『項羽と劉邦の時代』第三章
二世皇帝
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「銀河戦国群雄伝ライ 異聞」の記事における「二世皇帝」の解説
ライと麗羅の息子。両親のどちらにも似ていない文人肌、というより文弱な若者。
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二世皇帝
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始皇帝の崩御から2か月後、咸陽に戻った20歳の胡亥が即位し二世皇帝となり(紀元前210年)、始皇帝の遺体は驪山の陵に葬られた。そして趙高が権勢をつかんだ。蒙恬や蒙毅をはじめ、気骨ある人物はことごとく排除され、陳勝・呉広の乱を皮切りに各地で始まった反秦の反乱さえ趙高は自らへの権力集中に使った。そして李斯さえ陥れて処刑させた。 しかし反乱に何ら手を打てず、二世皇帝3年(前207年)には反秦の反乱の一つの勢力である劉邦率いる軍に武関を破られる。ここに至り、二世皇帝は言い逃ればかりの趙高を叱責したが、逆に兵を仕向けられ自殺に追い込まれた。趙高は二世皇帝の兄とも兄の子とも伝わる子嬰を次代に擁立しようとしたが、趙高は子嬰の命を受けた韓談によって刺し殺された。翌年、子嬰は皇帝ではなく秦王に即位したが、わずか46日後に劉邦に降伏し、項羽に殺害された。予言書『録図書』にあった秦を滅ぼす者「胡」とは、辺境の異民族ではなく胡亥のことを指していた。
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