献公 (秦)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 17:31 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動| 献公 嬴師隰 | |
|---|---|
| 秦 | |
| 第24代公 | |
| 王朝 | 秦 | 
| 在位期間 | 前384年 - 前362年 | 
| 都城 | 雍城→櫟陽 | 
| 姓・諱 | 嬴師隰 | 
| 諡号 | 献公 | 
| 生年 | 不詳 | 
| 没年 | 献公23年(前362年)[1] | 
| 父 | 霊公 | 
| 陵墓 | 囂圉 | 
献公(けんこう)は、秦の第24代公。姓は嬴(えい)、諱は師隰(ししつ)。霊公の子。
生涯
出公2年(紀元前385年)、庶長が霊公の子である献公を河西から迎えて秦公に就かせ、出公とその母を殺して深淵に沈めた。また、晋がこの混乱に乗じて河西の地を奪っていった。
献公元年(紀元前384年)、献公は殉死を禁じ、翌年(紀元前383年)には、櫟陽(れきよう)に都を遷した。
献公4年正月庚寅(紀元前382年12月6日)、子の渠梁(のちの孝公)が生まれる。
献公11年(紀元前374年)、周から太史儋がまみえ、「17年経つと秦から覇王が出ましょう」と告げてきた。
献公21年(紀元前364年)、章蟜は晋と石門で戦い、6万人を斬首し、周の天子から黼黻(ほふつ)の衣服[2]を賜った。
献公23年(紀元前362年)、魏・晋と少梁で戦い、その将の公孫痤を捕虜とした。同年、献公が薨去し、子の渠梁が立って秦公(孝公)となった。
脚注
参考資料
- 『史記』(秦本紀第五、秦始皇本紀第六)
- 献公_(秦)のページへのリンク

 
                             
                    


