襄公_(秦)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 襄公_(秦)の意味・解説 

襄公 (秦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 18:11 UTC 版)

襄公
初代公
王朝
在位期間 前777年 - 前766年
都城 犬丘
諡号 襄公
生年 不詳
没年 前766年
荘公
陵墓 西垂

襄公(じょうこう、? - 紀元前766年)は、の初代公。荘公の子。

生涯

襄公は秦の太子であった兄の世父中国語版(せほ)から太子を譲られ、秦の太子となった。

荘公44年(前778年)、荘公が卒去したため、襄公が後を継いだ。

襄公元年(前777年)、襄公は妹の繆嬴を豊王[1]の妻とした。

襄公2年(前776年)、が犬丘を包囲した。兄の世父はこれを撃って戎の捕虜となったが、1年あまりして釈放された。

襄公7年(前771年)春、幽王褒姒(ほうじ)を寵愛し、太子を廃して褒姒の子を嫡子とした。また、しばしば諸侯を欺いたので、諸侯は幽王に叛き、西戎犬戎申侯とともに周を撃ち、幽王を驪山の麓で殺した。この時、襄公は兵を率いて周を救うために戦い、周の洛邑[2]東徙でも周の平王を護衛したため、平王から諸侯に封じられ、岐山以西の地を賜り、伯爵となった。ここにおいて襄公は秦国を創始し、諸侯と聘享の礼[3]を通じた。襄公は騮駒(りゅうく)[4]・黄牛・羝羊(ていよう)[5]の各3匹を供え、西畤(せいじ)[6]を作って上帝を祠った。

襄公12年(前766年)、襄公は戎を討って岐山の麓で薨去し、子の文公が立って秦君となった。

脚注

  1. ^ 太子姫伯服中国語版
  2. ^ 現在の河南省洛陽市
  3. ^ 聘問・享宴の礼。
  4. ^ たてがみの黒い赤身の馬。
  5. ^ 牡(おす)の羊。
  6. ^ 西方祭壇。

参考資料

  • 史記』(秦本紀第五)



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「襄公_(秦)」の関連用語

襄公_(秦)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



襄公_(秦)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの襄公 (秦) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS