り‐ざん【驪山】
驪山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/06/01 00:52 UTC 版)
座標: 北緯34度21分31.27秒 東経109度12分37.75秒 / 北緯34.3586861度 東経109.2104861度 驪山(りざん)とは、中華人民共和国陝西省にある秦嶺山脈の山である。基盤は石英岩や石英砂岩の上に紅土と黄土が堆積しており、最高峰の山頂は仁宗廟である。驪山から湧き出た地下水は渭水につながっている。
地理
西安市から東に25kmの地点に存在し、東西長は25km、南北長は14kmで高さは1302m。「関中八景」の一つに「驪山晩照」としてあり、国家級森林公園、AAAA級の観光場所、文物保護単位、風景名勝区等が存在している。1982年に中華人民共和国国家級風景名勝区に認定された[1]。
歴史
驪山は女媧が老母殿山を持ってきて、山の下に華清池を作ったとされる。
清朝末期の義和団の乱時には西太后が八カ国連合軍から逃れる時に来訪し、建物を設えたとされる。
1936年、蔣介石が陝西に至り、張学良と楊虎城と籠ったが、12月12日に西安事変が勃発すると、蔣介石は捕捉された。そして、中国国民党政府下では、民族復興の地とされた。
驪山における女媧の五色石錬製の伝説
驪山(りざん)は中国・陝西省西安市臨潼区に位置し、華清池の温泉だけでなく、女媧(じょか)がここで五色石を練って天を補修したという創世神話の舞台としても知られている。驪山はまさに女媧補天神話の「二つの核を持つ聖地」──神話伝説の発祥地であると同時に、歴代の祭祀と民俗伝承の中心地である。[2]
古籍に見る驪山の女媧
女媧が驪山で活動したという記述は、古い文献にまで溯ることができる。南宋の羅泌(らひつ)『路史』には「女媧、中皇山の源に立治し、驪山に継興す」とあり、「驪」は「麗」に通じ、女媧が中皇山に続いて驪山一帯で興ったことを明確に示している。[3]北宋の『長安志』にも「驪山に女媧治処有り、今の驪山老姥殿即ち其の処」と記載されている。[4]清代の兪樾(ゆえつ)『曲園雑纂・小浮梅閑話』はさらに「驪山老母、実に其の人あり、烏有に非ず」と考証している。これらの文献は、女媧と驪山の地縁的関連性を裏付ける確かな証拠連鎖となっている。
驪山における女媧の五色石練りと天補修の伝説詳細
天が破れた理由として最も知られているのは、火神・祝融(しゅくゆう)と水神・共工(きょうこう)の戦いにより、共工が不周山(ふしゅうざん)に激突して山が倒れ、天と地が裂け、洪水が猛威を振るったというものである。女媧は驪山で立ち上がり、驪山・石甕谷(せきおうこく)の上方で赤・黄・青・白・黒の五色石を採集し、烈火で練り上げた。道家の学説によれば、五色石は五行と五方に対応する。
- 青は木に属し東方
- 赤は火に属し南方
- 黄は土に属し中央
- 白は金に属し西方
- 黒は水に属し北方
これにより五行をもって宇宙秩序を再構築したとされる。女媧が天を補修した後、巨大な亀の足を切り落として四本の柱とし天を安定させ、炉の灰で大地の南東部の陥没を埋めて水害を鎮めた。[5]
驪山の女媧伝説と遺跡群
驪山周辺には伏羲(ふくぎ)・女媧にまつわる遺跡が極めて密集している。[6]
- 種疙瘩(しゅかっと):女媧が土をこねて人を造ったと伝わる場所。
- 補天台(ほてんだい)と五色石(ごしきせき):女媧が石を練って天を補修した遺跡。
- 驪山南麓には女媧の母・華胥(かしょ)の陵もある。
学者の研究によれば、女媧氏族はおおむね陝西省驪山一帯を出発点とし、東・南・西の三方向に分かれて移動していった。臨潼区内の姜寨遺跡(きょうさいいせき、約6000年前)からは、中国最古の彩陶(蛙文様)が出土しており、これは中華始祖・女媧氏の「媧(蛙)騰図」であると専門家は推定している。さらに伏羲女媧交尾柏、蟠蛇墓、石棺などの遺跡が、立体的で密度の高い女媧文化遺産群を構成している。
「始皇帝陵」としての「驪山」
始皇帝が埋葬された場所も、史料によって文字が異なるが、「驪山」と呼ばれていた[7]。現在は始皇帝陵と呼ばれているが、この名称は漢代以降になってからのことである。始皇帝陵は驪山の北麓にあるが、西北麓の地域には始皇帝の父である荘襄王や曾祖父の昭襄王の墳丘の他、漢代皇帝の陵墓が存在している。
驪山に関する具体的な記録に関しては『水経注』によると、「驪山の北は金を産出し、南は玉を産出する」とあり、『漢書』地理志では、驪山の南、藍田谷で美玉を産出するという記録などがある。
- 『史記』:驪山(驪山は自然の山)
- 『漢書』:驪山
- 秦代(同時代)の出土資料:麗山園・麗山邑・麗邑
漢代以降の史料
- 始皇帝冢:『史記』巻八高祖本紀
- 始皇冢:『水経注』
- 始皇陵:『史記』巻六正義注引『関中記』
- 秦始皇陵:同引『括地志』
驪山山中の遺跡「撃鼓坪遺跡」
始皇帝陵の南に位置する驪山山中の北に大きく張り出した尾根の先端部から、撃鼓坪遺跡が発見され、秦代の建築以降の瓦片が出土された。地元の伝承では始皇帝陵を築く際、始皇帝陵や陵園全体を見渡せるこの地で太鼓を打ち鳴らしながら始皇帝陵建造の指揮を執ったと伝えられる[7]。
始皇帝陵の南北中心軸としての「驪山」
始皇帝陵を建造するにあたり、「望峯[8]」と呼ばれる、驪山山中の基準点が存在していたことがわかっており、フィールドワークにより場所は推定されている(驪山北面・鄭家庄の峰)ものの、その場所であるかどうかは現時点で結論は出ていない。最高峰の山頂は仁宗廟であるが、始皇帝陵を眺望することができない。
エジプトのピラミッドとの相似性
始皇帝陵だけでなく、漢代皇帝陵にも当てはまるが、これらの陵墓は渭水に沿うようにして河岸段丘上の緩やかな斜面に建造されており、エジプトのナイル川西岸に集中して建造されたピラミッドの分布との相似性が指摘されている[7]。
参考文献
- 『宇宙と地下からのメッセージ-秦始皇帝陵とその自然環境』(共著書、鶴間和幸・惠多谷雅弘監修)D-CODE、2013年3月
脚注
- ↑ 中華人民共和国国務院 (1982年11月8日). “国务院批转城乡建设环境保护部等部门关于审定第一批国家重点风景名胜区的请示的通知” (中国語). 北京法院法規検索. 2023年2月5日閲覧。
- ↑ 『淮南子・覧冥訓』(前漢、劉安等)——女媧が五色石を練って天を補った話を最も早く体系的に記す文献。伝説内容の原典。
- ↑ 『路史』(南宋、羅泌)——女媧が「驪山に継興す」と記載。女媧と驪山の地縁を確認。
- ↑ 『長安志』(北宋、宋敏求)——「驪山に女媧治処有り、今の驪山老姥殿即ち其の処」の中核的記載。
- ↑ 『五色石:五行哲学の物質的担体と文化実践』——五色と五行の対応関係を哲学的視点から解析。
- ↑ 『大秦岭大文化——国脉秦岭』——驪山の女媧遺跡分布を系統的に整理。
- 1 2 3 『宇宙と地下からのメッセージ-秦始皇帝陵とその自然環境』(共著書、鶴間和幸・惠多谷雅弘監修)D-CODE、2013年3月
- ↑ (元)駱天驤撰『類編長安志』『西京道里記』
外部リンク
固有名詞の分類
- >> 「驪山」を含む用語の索引
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