こう‐きょ【×薨去】
薨去
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2016年(平成28年)10月27日8時34分、東京都中央区の聖路加国際病院で心不全のため薨去。享年102(満100歳没)。皇位継承順位は第5位であった。 11月4日、葬儀にあたる斂葬の儀が豊島岡墓地で行われた。喪主は百合子妃が務め、司祭長は自身が名誉総裁を務めた日本・トルコ協会の東園基政常任理事が務めた。当時の天皇皇后は「皇族であっても自身らより目下の者の葬儀には参列しない」という皇室の慣例により参列せず、使者として河相周夫侍従長が拝礼した。告別式にあたる葬場の儀には600人が、当日行われた一般参拝には、1335人が参列した。午後、新宿区内の落合斎場で火葬され、豊島岡墓地にある寛仁親王、桂宮宜仁親王、高円宮憲仁親王の墓の近くに埋葬された。
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薨去
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1938年(昭和13年)5月には第16回赤十字国際会議出席のために横浜から出港し、カナダ経由でロンドンへ向かったが、カナダ旅行中に発病して急遽帰国した。 その後、千駄ヶ谷の徳川公爵邸で日赤病院の青柳博士を主治医にして療養生活を送っていたが、1940年(昭和15年)6月5日午前0時4分、急性肺炎を併発して76歳で薨去。数日後に勅使が徳川邸に派遣され、従一位と大勲位菊花大綬章が追贈された。大勲位は単に家柄だけで獲得できる爵位とは異なり、実際の功績に基づいて決められた宮中最高席次であった。家達はこれ以前貴族院議長退任に際してや満州事変の論功行賞に際して大勲位とすることが取り沙汰されていたが、生前には実現せず、死後に国家への功労度が最高度と認定され、爵位と勲等という二系統の「権威のヒエラルキー」において頂点に立つ形となった。この叙勲に妻の泰子は「臣下の頂ける最高の勲章」であると涙を流したという。 葬儀は11日に上野・寛永寺で執り行われた。午前10時50分頃に千駄ヶ谷邸を出た霊柩車は、四谷大木戸、市谷見附、水道橋、松住町を経路して寛永寺に入った。同寺の近くでは江戸消防記念会の約150人が揃いの半纏を着て木遣で見送った。寛永寺での葬儀は午後1時より挙行され、喪主は息子の徳川家正公爵。葬儀委員は海軍大将井出謙治が務めた。会葬者には内閣総理大臣米内光政もいた。勅使の平松侍従、皇后宮御使の岡部事務官、皇太后宮御使の清閑寺良貞伯爵、陸軍参謀総長閑院宮載仁親王、海軍軍令部総長伏見宮博恭王の御直拝もあった。 つづいて午後3時から4時まで告別式が営まれた。参列者は3500人を超え、付近一帯では自動車の渋滞が引き起こされる事態が発生している。その後遺骸は第二霊廟境内の徳川家累代の墓に埋葬された。
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薨去
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「マーガレット (スノードン伯爵夫人)」の記事における「薨去」の解説
2002年2月9日に薨去した。71歳没。100歳を越えた長寿の母、エリザベス王太后は娘の死にショックを受け、3月30日に後を追うように崩御した。
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薨去
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明治27年(1894年)に勃発した日清戦争において、熾仁親王は参謀総長として広島大本営に下るが、この地で腸チフス(当初はマラリアと診断された)を発症し、兵庫県明石郡垂水村舞子の有栖川宮舞子別邸(舞子ビラも参照)にて静養に入る。症状は一旦軽快したものの翌明治28年(1895年)に入って再び悪化し、池田謙斎やエルヴィン・フォン・ベルツらによる治療もむなしく1月14日にはついに危篤に陥る。その知らせを受けた明治天皇はこの日、熾仁親王への大勲位菊花章頸飾授与を決定した。翌1月15日、舞子別邸にて61歳で薨去。さらに翌16日には功二級金鵄勲章が授与されたが、公式発表における薨去の日付は、実際には遺体が東京に帰着した日である24日と発表された。熾仁親王の葬儀は国葬となり、豊島岡墓地に埋葬された。
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薨去
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明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法公布式典では明治天皇の脇に控え、憲法文を天皇に奉呈する役割を負っている。以降も臣下では最高の席次を持ち、最高位の功臣として遇された。 明治24年(1891年)2月18日、インフルエンザ罹患により53歳で薨去。薨去の直前である2月17日には明治天皇が親しく見舞いに訪れ、正一位に叙せられた。天皇は三日間の廃朝を宣言し、2月25日に国葬が行われることになった。当日の天候は晴天で、気温も暖かった。明治天皇は以降このような日のことを『三条日和』と呼んでいたという。また国葬以外に各地で自発的に追悼行事も行われた。
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薨去
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「フィリップ (エディンバラ公)」の記事における「薨去」の解説
「エディンバラ公フィリップの葬儀(英語版)」も参照 2021年4月9日、ウィンザー城にて薨去した。99歳没。 2021年4月17日、ウィンザー城内の聖ジョージ礼拝堂で葬儀が行われた。新型コロナウイルス感染防止のため、参列者は王族など30人のみとし、行事もすべて城内で行われるなど簡素な形式で行われ、遺体は同礼拝堂に埋葬された。
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薨去
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大正5年(1916年)、大正天皇に供奉し、福岡県で行われた陸軍特別大演習を参観した帰途に、胃病から倒れ、胆嚢炎を併発。療養中の12月10日に内大臣在任のまま薨去。享年75。病床についてから死ぬ間際まで、永井建子作曲の『雪の進軍』を聞いていたと伝えられている。本人は大変この曲を気に入っていたという。 臨終の枕元には山縣有朋、川村景明、寺内正毅、黒木為楨などが一堂に顔を揃え、まるで元帥府が大山家に引っ越してきたようだったという。大山の死は夏目漱石の死の翌日のことだった。新聞の多くは文豪の死を悼んで多くの紙面を彼に割いたため、明くる日の大山の訃報は他の元老の訃報とは比較にならないほど地味なものだったが、それが大山と他の元老たちの違いを改めて印象づけた。12月17日の国葬では、参列する駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が直に大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えた。かつての敵国の軍人からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山と後の東郷平八郎の2人だけだった。 那須に葬られた。墓所は栃木県那須塩原市。遺品は陸上自衛隊宇都宮駐屯地に多数収蔵され、資料館に展示されている。
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薨去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 15:29 UTC 版)
律令制下、皇族のうちの皇太子妃や親王・内親王、或いは、位階が三位(正三位・従三位)以上の者の死については、「薨去(こうきょ)」の語を用いた。外国の皇太子等元首に近い者の死についても同様の表記を用いる場合がある。明治の皇室典範制定以降は、三后を除いたすべての皇族の死に「薨去」を用いている(それ以前は親王宣下のない皇族の死は天皇の子といえども「御逝去」と表現された)。 また明治時代以降、現職の首相が死亡した際にも薨去が使われることがある。1945年(昭和20年)の朝日新聞では、アドルフ・ヒトラーの訃報に「ヒ総統薨去」の見出しを用いた。 「薨去」は公文書においても皇族や外国の王族に対して使用される正式な表現であり、2011年(平成23年)10月22日の「スルタン・サウジアラビア王国皇太子薨去に際しての弔意メッセージ」は、玄葉光一郎外務大臣声明として、また2021年(令和3年)4月9日の「エディンバラ公フィリップ殿下薨去に際しての菅総理大臣及び茂木外務大臣による弔意書簡の発出」において、薨去の語を用いている。しかし、日本マスコミ上では、皇族が死去された場合でも「ご逝去」などの表現が用いられることが多い。 また、外国君主であっても王より下の称号に対しては「薨去」が使われる。2020年(令和2年)9月30日の「サバーハ・アル・アハマド・アル・ジャービル・アル・サバーハ・クウェート国首長殿下の御薨去に関する菅内閣総理大臣の談話」や、2022年(令和4年)5月19日の「ハリーファ・アラブ首長国連邦大統領薨去を受けた岸田内閣総理大臣による弔意の記帳」は、首長(アミール)号を持つ君主に対して「薨去」の語を用いている。
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薨去
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