薨去と葬儀
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「アンリ (フランス公)」の記事における「薨去と葬儀」の解説
2019年1月21日の朝、薨去。奇しくもこの日はルイ16世の226回目の命日である。アンリは毎年恒例であるルイ16世の追悼ミサに出席する準備をしているときに、突然疲れを感じてベッドに戻り、そのまま息を引き取ったという。その死は家族にとっても予期せぬものだった。フランスで2018年11月17日から発生している黄色いベスト運動に対して、1月17日に「デモは平和にやりなさい」とTwitterで国民に向けてメッセージを発したばかりであった。王党派組織「アクション・フランセーズ」は、アンリの死を受けて「国王崩御、国王万歳!(フランス語版)」とTwitterに投稿した。 2月2日、ドルーのサン=ルイ王室礼拝堂(フランス語版)において葬儀が催され、モナコ大公アルベール2世や前スペイン王妃ソフィアをはじめとする各国の王侯がこれに参列した。 各国王侯からの葬儀参列者リスト 参列者名備考アルベール2世 モナコ大公 ムーレイ・ハサン(英語版) モロッコ王太子 ソフィア・デ・グレシア 前スペイン王妃 ファラー・ディーバー(英語版) 旧イラン帝室(パフラヴィー朝)元皇后 フィリップ・フォン・リヒテンシュタイン(英語版) 前リヒテンシュタイン侯爵フランツ・ヨーゼフ2世の次男 ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフ 旧ロシア帝室(ロマノフ家)継嗣 ステファニー・ド・ラノワ ルクセンブルク大公世子ギヨーム妃 サイード公ムハンマド・アリー(英語版)サイード公妃ノアル・ザーヒル・シャー(英語版) 旧エジプト王室(ムハンマド・アリー朝)継嗣。最後のエジプト国王フアード2世の長男旧アフガニスタン王女。最後のアフガニスタン国王ザーヒル・シャーの孫娘 カルロ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ 旧両シチリア王家(シチリア・ブルボン朝)カストロ系当主 カール・ハプスブルク=ロートリンゲン 旧オーストリア帝室(ハプスブルク家)当主 レカ・ゾグ 旧アルバニア王室(ゾグ家(英語版))当主 エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア 旧イタリア王室(サヴォイア家)継嗣 カルロス・ハビエル・デ・ボルボン=パルマ パルマ公爵家(ブルボン=パルマ家)当主 マリーア・ピア・ディ・サヴォイア 最後のイタリア国王ウンベルト2世の長女 ゲオルク・ハプスブルク=ロートリンゲン 当主カールの弟 マルティン・ハプスブルク=ロートリンゲン 前オーストリア=エステ大公ローベルトの三男 アルバロ・デ・オルレアンス=ブルボン アルフォンソ・デ・オルレアンスの子アルバロ・デ・オルレアンス(スペイン語版)の次男か エーバーハルト・フォン・ヴュルテンベルクミヒャエル・フォン・ヴュルテンベルク 旧ヴュルテンベルク王家当主カールの次男と四男 シクスト・エンリケ・デ・ボルボン=パルマ ブルボン=パルマ一族 アルコ=ツィンネベルク伯リプラント妃マリア・ベアトリス 前オーストリア=エステ大公ローベルトの長女 マティルデ・フォン・ヴァルトブルク・ツー・ツァイル・ウント・トラウフブルク 旧ヴュルテンベルク王家当主カールの長女 シャルル・エマニュエル・ド・ブルボン=パルム(フランス語版) ブルボン=パルマ公子ミシェル・ド・ブルボン=パルムの末子
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薨去と葬儀
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11月4日、原敬暗殺事件が発生した。山縣も、「政友会の俗論党及び泥棒めらに殺されたのだ」「頗る残念だ」と、原の死に涙を流している。また山縣は11月3日から熱を出しており、次第に衰弱していった。山縣は西園寺に首相就任を打診したが断られ、西園寺と松方の談合により高橋是清による政友会内閣が成立することとなった。これを追認した山縣は「又泥棒共の延長か」と吐き捨てている。 山縣は一時的には回復したものの、その後病状は悪化し大正11年(1922年)2月1日13時30分、肺炎と気管支拡大症のため小田原の別邸・古稀庵において薨去した。享年85(満83歳没)。山県は薨去に伴い、従一位を贈られた。 同年2月9日に日比谷公園で山縣の国葬が営まれたが、当日は雨であり1か月前に病没した大隈の「国民葬」には、多数の民衆が集まったのと比較すると閑散としたものだったといわれる。 当時の大阪朝日新聞は、その様子を以下のように伝えている。 棺は午前8時40分ごろに、安置されていた大蔵大臣官邸を出発。当時病身であった喪主の伊三郎や田中義一、島村速雄、山梨半造などといった面々が、棺を載せた砲車につき従った。斎場の日比谷公園近くでは群衆が押し寄せ、その一部は当時建設中の帝国ホテルの敷地内まで入り込んだ。斎場の幄舎は二棟建てられ「一万の参列者を入れる為」の規模であったが、実際には「二棟で一千にも満たず雨に濡れた浄白な腰掛はガラ空き」という状態であった。来賓席の最前列には東郷平八郎が座り、その他将官も礼装に威儀を正して「軍国の花が一時に咲き揃った様」とも言われた。来賓や親族の拝礼が終わると一般人の拝礼が許されたものの、「一般人」の内実は山縣家から入場券を送られた相手であり、そのうち「狂介の昔から元帥と時めく迄の友人或は世話になった書生下女の家の子郎党」ばかり700名が拝礼した。国葬のあと、棺は護国寺に運ばれ、そこに埋葬された。 東京日日新聞は、山縣の国葬を「国葬らしい気分は少しもせず、まったく官葬か軍葬の観がある。同じ場所で行われた“不老長寿”のような大隈侯の華々しく盛んであった国民葬を想い、“寒鴉枯木”のような寂しい“民ぬき”の国葬を眺めて、何と云っていいか判らぬ気持ちになった」「大隈候は国民葬。きのうふは〈民〉抜きの〈国葬〉で幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じた。戒名は報国院釈高照含雪大居士。護国寺の墓碑には「枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵」と刻まれている。 当時東洋経済新報社記者で、後の内閣総理大臣である石橋湛山も大正11年2月11日『小評論』のコラムにおいて「死もまた社会奉仕」を発表し、山縣の政治権力を「国会を憂うる至誠の結果」と評し、宮中某重大事件に関しても湛山は至誠から出た行為と評しつつも、「世の中は停滞せざる新陳代謝があって、初めて社会は健全たる発達をする」ことを指摘し、「人は適当の時期に去り行くのもの、死もまた一の意義ある社会奉仕でなければならぬ」と評している。 山縣の薨去とともに、薩長による寡頭的な藩閥支配はほぼ終焉した。元老は軍に対して強い影響力を持たない松方正義(松方も約2年半後に病没している。)と西園寺公望のみとなり、政府と軍を調停する機能を大きく失ってしまったのである。
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