薩会同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 17:00 UTC 版)
8月4日の朝議は、長州の攘夷実行に非協力的であったとして、小倉藩の処分案を内決した。大名の改易を幕府の頭越しに朝廷が行おうとする、幕藩秩序を揺るがす重大事態であった。処分案が中立派の武家伝奏野宮定功から備前藩主池田茂政(一橋慶喜の実弟)に内々に伝えられると、因州・備前・阿波・米沢の攘夷派4侯は強く反発した。 久光の出馬が実現しない間、さらに事態は急迫する。8月13日、大和行幸の詔が渙発された。大和国の神武天皇陵・春日大社に行幸、しばらく逗留して親征の軍議をなし、次いで伊勢神宮に行幸するということだったが、もとよりこれは天皇の真意に出たものではなく、議奏の三条ら急進派公家や真木が主張したものだった。天皇は憔悴のためろくに寝食も取れない状態となる。行幸の間に御所を焼き払い天皇を長州に迎えるのだとか、横浜の征伐に向かうのだといった風説が流れた。因州・備前・阿波・米沢4侯が参内し、親征中止を天皇に直接述べたいと強く求めた。 同じ日、薩摩の高崎正風(左太郎)が会津藩公用方秋月悌次郎を訪れ協力を求めた。時が無いため、京都の薩摩藩邸は本国からの出兵を待たず、越前に代わる新たな提携相手として会津に接近したのである。その後高崎は近衛忠熙を訪ねて相談したが、近衛は決断を躊躇った。薩摩と会津は計画を練り、15日に高崎と秋月が中川宮を訪れて計画を告げると、宮は協力を決断した。16日未明に宮が参内し奏上したものの密談できず、天皇には計画の概要のみ伝えられたが、夜になって「兵力をもって国の災いを除くべし」と政変を決断する宸翰が宮に伝えられた。17日に京都守護職松平容保から計画を聞いた右大臣二条斉敬が賛同した。内大臣徳大寺公純も同意であった。近衛忠熙もここで協力を決意する。そして深夜、中川宮・二条・徳大寺・近衛父子と松平容保・稲葉正邦(京都所司代、淀藩主)が参内し、最終的な相談が行われた。
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