薩土倒幕挙兵の密約
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慶応3年(1867年)慎太郎は江戸の乾退助を京に呼び寄せ、5月18日(太陽暦6月20日)、京都東山の料亭「近安楼」で、乾、福岡藤次、広島藩・船越洋之助らと会見した。さらに5月21日(太陽暦6月23日)、慎太郎は乾を薩摩の西郷隆盛に会わせることにし、以下の手紙を書いた。 一筆拝呈仕候。先づ以て益々御壮榮に御坐成さらるる可く、恭賀たてまつり候。今日、午後、乾退助、同道御議論に罷り出で申したく、よっては大久保先生、吉井先生方にも御都合候はば、御同会願いたてまつりたき内情に御座候。もつとも強いて御同会願いたてまつると申す訳には、御座なく候。何分にも御都合次第之御事と存じたてまつり候。尚又、今日、昼後の処、もし御不工面に候はば、何時にてもよろしき儀に御座候間、悪しからぬ様、願い上げたてまつり候。右のみ失敬ながら愚礼呈上、如比御座候、以上。(慶応三年)五月廿一日 清之助 再拝 (西郷)南洲先生 玉机下 これにより、慎太郎は同日、京都(御花畑)の薩摩藩家老・小松清廉寓居 で、土佐藩の谷干城・毛利恭助らとともに薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)らと武力倒幕を議する事となった。 西郷吉之助(薩摩藩) 小松帯刀(薩摩藩) 中岡慎太郎(土佐藩) 谷干城(土佐藩) 乾退助(土佐藩) 乾が後年、談話(『維新前後経歴談』)で語った内容によれば、彼は「私に三十日の日を假して呉れれば、土佐へ行って兵を募る。其兵を募ることが出来なかったら私は割腹する」と誓い、慎太郎もまた「私が西郷さんの所に人質に残って、乾の言うことが無になったら私が割腹する」と決意を述べたことで、西郷の信頼を得て、出兵(薩土密約)を約した。 ただし、近年の研究によれば、この出兵の約定は、乾や西郷らが個人の資格で結んだものであり、藩を代表した密約とはいえないとされる。
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