薩土盟約の仲介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:42 UTC 版)
6月17日、土佐藩参政・後藤象二郎は、前土佐藩主・山内豊信に、幕府に自ら政権を返上させ、朝廷を中心とした新政府を樹立する「大政奉還」の構想を進言し、その実現のための建白運動の了承を得た(大政奉還は従来、坂本龍馬が後藤に献策したとされていたが、現在は、龍馬の献策書「船中八策」は後世の創作であるとの説が有力であり、龍馬がどの程度、立案に携わったかは不明)。 22日、慎太郎と龍馬の仲介によって、土佐藩の後藤象二郎、福岡孝弟、真辺栄三郎、寺村左膳の4名と、薩摩藩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵の3名の在京重役が、京都三本木の料亭・吉田屋に一堂に会した。後藤ら土佐側はこの会合で、大政奉還の建白を推進していくことを説き、薩摩側もこれを了承し、両藩の提携が結ばれた(薩土盟約)。また、後藤は建白にあたって、土佐藩兵二大隊を率いて上洛し、将軍に圧力をかけることを薩摩側に約した。 研究者の家近良樹によれば、西郷らがこの土佐の方針を承認したのは、「万が一、将軍が政権を朝廷に返上して王政復古が実現すれば、それはそれでよい、反対に大政奉還運動が失敗すれば、武力倒幕に踏み切るうえで公然たる名目がたち、いずれにせよ、西郷らにとっては好都合なプランの提示だった」からだと考えられるという。 一方、慎太郎と龍馬が仲介した理由については、会合の翌日23日、佐々木高行の日記『保古飛呂比』に彼らの考えが記されている。それによれば、慎太郎たちは、「これまで土佐藩は幾度も藩論を変えたため、薩摩藩は土佐への疑念を解いていない」「大政奉還を土佐藩が主張し、その主体となれば、薩摩藩も必ず信用するだろうし、薩長人も土佐が主体的な提案をすることを望んでいるだろう」と述べているように、運動の結果がどうあれ、まずは土佐藩が京都政局に自ら参加し、薩長からの信頼を得て、雄藩同士の提携が進むことを狙っていた。 また、慎太郎はこの前年の10月26日時点ですでに、『時勢論 二』(窃ニ示知己論)において、大政奉還の必要性を説いているように、必ずしも武力倒幕一辺倒ではなかった。
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