薩土討幕の密約による浪士の移管とは? わかりやすく解説

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薩土討幕の密約による浪士の移管

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)

鳥羽・伏見の戦い」の記事における「薩土討幕の密約による浪士の移管」の解説

薩土討幕の密約締結時点で、勤王浪士薩摩藩邸へ移管する事が決議されていたが、幕府の目を伺いその機を得ぬまま10月となっていた。討幕派の乾らの穏便に薩摩藩移管したいと言う思惑と、大政奉還派の寺村後藤象二郎らは武力討幕路線浪士藩邸内から一掃したいという思惑一致し10月初旬大政奉還目前中村勇吉相楽総三里見某ら浪士身柄薩摩藩移管する事となった。(この浪士たちが、のちに庄内藩などを挑発戊辰戦争前哨戦江戸薩摩藩邸の焼討事件発展する9月24日(太陽暦10月21日)、在京土佐藩(佐幕派)上士らが、幕吏嫌疑恐れて白川藩邸から陸援隊追放計画同日坂本龍馬が、安芸藩震天丸乗りライフル銃1000挺を持って5年ぶりに長崎より土佐帰国浦戸入港の時、土佐藩参政渡辺弥久馬(斎藤利行)に宛てた龍馬書簡中に一筆啓上仕候。然ニ此度云々の念在之、手銃一千挺、藝州蒸汽船に積込候て、浦戸に相廻申候。參がけ下ノ關に立より申候所、京師急報在之候所、中々さしせまり候勢、一変動在之候も、今月末より来月初のよふ相聞へ申候。二十六日頃は薩州の兵は二大隊上京、其節長州人数上坂 是も三大隊斗かとも被存候との約定相成申候。小弟(坂本龍馬)下ノ關居の日、薩大久保一蔵長ニ使者来り同國蒸汽船を以て本國歸り申候。御國の勢はいかに御座候や。又、後藤(象二郎)參政はいかゞに候や。 京師(京都)の周旋くち(口)下關にてうけたまわり實に苦心御座候乾氏(板垣退助)はいかゞに候や。早々拜顔の上申述度、一刻を争て奉急報候。謹言。(慶應三年)九月廿四日 坂本龍馬 渡辺先生 左右 と書き乾退助会って直接大政奉還」の策略真意について説明をしたいと送っている。 9月25日(太陽暦10月22日)、坂本龍馬が、土佐勤王党同志らと再会し討幕挙兵方策時期議す9月29日(太陽暦10月26日)、乾退助が、土佐藩仕置役(参政)兼歩兵大隊司令に任ぜらる。 乾退助の失脚 しかし、後藤象二郎献策による大政奉還論が徳川恩顧土佐藩上士の中で主流占めると、過激な武力討幕論は遠ざけられるようになる大政奉還論に傾く藩論憂い退助何度も警告発した戦争によって作られ社会秩序は、再び戦争起し勝利をする事によってでなければ絶対にこれを覆えすことは出来ない。それは古今東西歴史証明する通りである。 — 乾退助 また「徳川300年幕藩体制は、戦争によって作られ秩序である。ならば戦争によってでなければこれを覆えすことが出来ない話し合い将軍職退任させるような、生易しい策は早々に破綻するであろう」と意見再三述べたが、山内容堂は「退助まだ暴論を吐くか」と取り合わず10月8日(太陽暦11月3日)、退助土佐藩歩兵大隊司令役から解任した。山内容堂はこの時点薩土討幕の密約反故出来た考え土佐藩主導のもと、慶応3年10月14日(1867年11月9日)、大政奉還成される事になる。

※この「薩土討幕の密約による浪士の移管」の解説は、「鳥羽・伏見の戦い」の解説の一部です。
「薩土討幕の密約による浪士の移管」を含む「鳥羽・伏見の戦い」の記事については、「鳥羽・伏見の戦い」の概要を参照ください。

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