薩土討幕密約の締結以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 01:47 UTC 版)
同年5月21日(1867年6月23日)、土佐藩士・乾退助、谷干城らが、中岡慎太郎の仲介により薩摩藩家老・小松帯刀の京都滞在先の寓居において、同藩士・西郷隆盛、吉井幸輔らと薩土討幕の密約を結ぶ。 同年6月28日(1867年7月29日)、少將様(山内豊範)御納戸役を仰せ付けられ、役料米を下し置かれる。 7月17日(太陽暦8月16日)、中岡慎太郎の意見を参考にした乾退助によって土佐藩銃隊設置の令が発せられる。 7月22日(太陽暦8月21日)、乾退助は古式ゆかしい北條流弓隊は儀礼的であり実戦には不向きとして廃止し、新たに銃隊編成を行い、士格別撰隊、軽格別撰隊などの歩兵大隊が設置。近代式銃隊を主軸とする兵制改革を行った。さらにこの日、中岡慎太郎が、土佐藩・大目付(大監察)本山只一郎に幕府の動静を伝える密書を送る。中岡は本山宛の書簡に「…議論周旋も結構だが、所詮は武器を執って立つの覚悟がなければ空論に終わる。薩長の意気をもってすれば近日かならず開戦になる情勢だから、容堂公もそのお覚悟がなければ、むしろ周旋は中止あるべきである」と書き綴っている。 8月6日(太陽暦9月3日)、乾退助が、東西兵学研究と騎兵修行創始の令を布告。 明治元年2月10日(1868年3月3日)、御役御免。役料米を除かる。 同年3月13日(1868年4月5日)、小目付役(小監察)格式御馬廻を仰せ付けられ、役料二人扶持十二石を下し置かる。御軍備御用と文武調(ととのえ)役を兼帯し、取抜勤め致道館掛を仰せ付けらる。同年4月15日(1868年5月7日)、同役を以って吏代とし、浦戸より乗船にて京都へ差立らる。同年閏4月3日(1868年5月24日)、従来の役職はそのままを以って、関東へ差立られ、役職は大御目付役(大監察)を仰せ付けられた。 同年閏4月13日(1868年6月3日)、外吏を仰せ付けられ、費用の筋もこれあるべきにつき、格分月金15両を下し置かる旨、大坂表にて仰せ付けらる。同年7月6日(1868年8月23日)、京都へ在勤中、急御用を以って土佐へ帰着。同年12月17日(1869年1月29日)、小目付役(小監察)と兼帯の諸役を差免がれ、役料を除かる。格式御小性組を仰せ付けらる。明治2年1月(1869年2月)、京都において板垣退助、後藤象二郎らと写真を撮影。 明治3年5月25日(1870年6月23日)死去。正厚は無嗣子ゆえ板垣退助の次男・板垣正士を後嗣として家を継がしめた。
※この「薩土討幕密約の締結以降」の解説は、「乾正厚」の解説の一部です。
「薩土討幕密約の締結以降」を含む「乾正厚」の記事については、「乾正厚」の概要を参照ください。
- 薩土討幕密約の締結以降のページへのリンク