板垣退助とは? わかりやすく解説

いたがき‐たいすけ【板垣退助】


板垣退助 いたがき たいすけ

板垣退助の肖像 その1
板垣退助の肖像 その2
板垣退助の肖像 その3
天保8年4月17日大正8年7月16日 (1837~1919

高知生まれ。政治家。高知藩山内豊信側用人などをつとめるが、藩の公武合体路線と相容れず、討幕派と連携戊辰戦争で活躍明治維新後、高知藩大参事となり、藩政改革を行う。明治4年(1871)廃藩置県断行参議となり、岩倉遣外使節団派遣後の留守政府をあずかるが、征韓論入れられ6年(1873)に下野翌年、ともに下野した後藤象二郎らと民撰議院設立建白書政府提出愛国公党立志社設立自由民権運動先頭に立つ。14年(1881)自由党総理就任。後に第2次伊藤内閣第1次大隈内閣内相つとめた

キーワード 政治家
著作等近代デジタルライブラリー収載
  1. 板垣政法論 / 板垣退助述 ; 植木枝盛記 ; 五古二編 自由, 明14.3 <YDM27656>
  2. 板垣君欧米漫遊録 / 清水次郎清水次郎, 明16 <YDM21824>
  3. 板垣君欧米漫遊日記 / 師岡国編 松井忠兵衛, 明16.6 <YDM21823>
  4. 板垣退助君演説 / 前野茂久次編 前野茂久次, 明16.9 <YDM27657>
  5. 通俗無上政法論 / 植木枝盛記 ; 和田稲積絵入自由出版社, 明16.12 <YDM28199>
  6. 東洋自由泰斗板垣退助君高談集 / 斉藤和助編 共立支社, 明18.5 <YDM27658>
  7. 板垣南海翁之意見 / 板垣退助述 郷敏儒, 明23.2 <YDM27659>
  8. 愛国論 / 板垣立案 ; 出射吾三郎吉田書房, 明23.3 <YDM27644>
  9. 板垣伯の意見 / 小河義郎小河義郎, 明23.3 <YDM27663>
  10. 板垣南海翁之意見 / 板垣退助述 ; 岩本一郎岩本一郎, 明23.5 <YDM27660>
  11. 板垣伯演説筆記 / 馬場秀次郎落合一郎, 明24.2 <YDM27662>
  12. 板垣伯意見書 / 板垣退助述 憲政党党報局, 明32.1 <YDM27661>
  13. 板垣伯対舎身居士政教問答 / 田中弘之(舎身居士)述 舎身庵, 明36.10 <YDM27996>
  14. 自由党史. [1], [2] / 宇田, 和田三郎共編 五車, 1910 <YDM28615>
  15. 一代華族論 / 板垣退助著 社会政策社, 明45.6 <YDM39456>
  16. 選挙法改正意見 / 板垣退助著 〔出版者不明〕, 〔出版年不明〕 <YDM28671>

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板垣退助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 15:06 UTC 版)

板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月16日[5]4月17日[6]1837年5月20日もしくは5月21日〉 - 大正8年〈1919年7月16日)は、日本政治家軍人土佐藩陸軍総督)、武士土佐藩士)。従一位勲一等伯爵明治維新元勲自由民権運動の指導者。東アジアで初となる帝国議会を樹立し「国会を創った男」として知られる[7]伊藤博文大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。また、常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある[7][8]神道の立場から理神論を唱えた[9]


注釈

  1. ^ 板垣が命名委員を務め、板垣自身は「尚武館」の名を発案していたが、最終的には「国技館」の名に決し、板垣自身が土俵に立って「国技館」命名を宣言した。
  2. ^ a b 「一君のもと萬民悉く平等にして、みな同一均等の機會を有し、その間すこしも階級特權の存在を許さゞるは、我國建國の體制なり。(中略)しかりと雖も予が茲に平等均一といふは政治上における權利の平等均一と指すものにして、決してかの社會主義者の唱ふるが如く、社會上における生活の平等均一を指せるにあらず。けだし社會の實情において權利は之を平等均一ならしむることを得べきも、生活は決して之を平等均一ならしむることを得べからず。何となれば人間の智愚、強弱、勇怯、勤惰等の差別ある以上、これより生ずる所の生活の現象は自から相異ならざるを得ざるを以て也。(中略)階級即ち華族制度の如きは、もと人爲に成れるものなるが故に、之を破壞することを得るも、(中略)人格の光よりして發する所の天爵(天賦の才能)は、自然に相異なる所ありて、何者の力を以てするも到底これを平等均一ならしめ得べきにあらず。(中略)しかるに社會主義は之に反して生活の平等均一を以て主義とする者にして、平等と共産を以てその前提と爲せり。けだし社會主義より平等主義と共産主義の二者を取り去れば、社會主義はその意義を爲さず。故にいやしくも社會主義と謂へば、同時に必ず平等主義、共産主義ならざる可らず。しかして生活上の平等主義は、即ち全然人間の個人性を沒却し、その智愚、強弱、勇怯、勤惰の別を撒せる所の絶對無差別主義にして、各個人は唯一の勞働を條件として社會に賴て生存し、すこしも世味辛酸を嘗めて其德器を成就し、もしくは切磋琢磨によりてその材能の長ずる所を發揮し、以て個人の發展を期するといふが如き競爭を必要とせざるが故に、また之を謂つて絶對無競爭主義と爲すことを得べく、共産主義とは即ち經濟の基礎を全然社會に置き、私有財産の制を廃して一切の資本を社會の有と爲し、この資本の社會化によりて、唯一の勞働を條件として社會萬民の生活を平等均一ならしむるを謂ふ。(中略)かくの如きは到底個人性ある人間の堪へ得る所にあらず。彼等は「勞働は神聖にして人間は悉く平等無差別に勞働の結果を収め、平等均一の生活を求むべきものなり」と説くも、今、試みに彼等の要求するが如く、悉く勞働の賃銀を一定し、これを平等に社會の各個人に頒つとせんか。勞働の多寡、勤惰の如何によりて之が報酬を異にする時は、各人の平等を破り、社會主義の根本思想に反するが故に、勢ひ之を差別すること無くして悉く一樣に其賃銀を支給せざるべからず。果して然りとせんか、元來安逸を貪り勞苦を厭ふは生物の自然の性情にして、特に人類に至つては最も然るものあるが故に、自ら好んで勞働に就くの愚を敢てする者無かるべく、もし萬一社會的義務の觀念よりして自から好んで勞働に從事する者ありとするも、かかる場合においてはその怠惰なる者は、自己の安逸を貪る能はざるが爲めに、却て勤勉なる者を抑制して、之をして勞働に從事せしめず、結局全社會を擧げて怠惰、貧弱、困窮に陷らしめずんばひるまず、しかもかくの如きは單に勤勉なる者と怠惰なる者との間においてのみしかるにあらず。智愚、強弱、勇怯の間、また皆なしかり。即ち茲に智者ありてその絶倫の才智を示す時は社會の智なき者、才なき者は、之を見て生活の平等を壞る者なりと爲し、相團結して之を除かずんばひるます、また、かの勇者強者に對するも、また皆なしかり。かくの如くにして彼等は生活の平等を行はんが爲めに、ただに貧富のみならず遂には智愚、強弱、勇怯をも之を平均せずんば滿足する能はざるに至るべし。これ則ち個人の競爭を杜絶し、強て生活の平等を實現せんと欲する社會主義の論理の、當然歸着すべき結論たらずんばあらず。かくの如く社會をして強て個人の競爭を杜絶し、生活上の平等を得せしめんと欲する結果は、政治上においては常に直與政體に基く所の愚論に陷り、社會上に於ては恰かも水の卑きに就くが如く、常に社會を愚、弱、怯、惰の低き平準に保つに至るが故に、到底個人の智德の向上發展を求むべからざるのみならず、かへつてその智識は日に日に退歩し、人々各々一時の安を偸み、國家を監督するの智識、經驗無く、行政官となるへき人材も之を得べからずして、隨つて官吏の私曲を矯正する能はず、文明の發展を阻み、社會の進歩を害し、遂に社會主義の桎梏の下に在て、人類の社會をしてたゞ生活の本能のみによりて動く所の禽獸の社會と相擇ふこと無からしむるに至らん。かつそれ社會主義においてはまた共産主義を前提と爲し、個人が資本を擁して自から事業を營むことを許さゞるか故に、その結果は單に機械といひ製造といふが如き生産問題にのみ偏して、財政を運用するの能力を養ふ能はず、爲めに事業に關する智識、經驗を缺き、その之を缺くの極、愚者は倍々愚となり、終に國家財政の監督を爲すの途を知らず、遂に社會主義の桎梏の下に在て、人類は社會の奴隷となり、呆然としてたゞ目前の生活に沒頭し、禽視獸息の已む無きに至る。(中略)社會主義によりて個人の競爭を絶ち、其個人性の發展を遏め、一切のものを社會化し、社會性に偏倚するの極は、遂に個人性の破壞、個人自由の撲滅となり、延て社會の壓制束縛となるは極めて覩易きの道理にして、予(板垣退助)が社會主義を以てそれ自身が既に一個の破壞主義なりと爲す所以は實に茲に在り。(中略)社會主義は無差別共産主義にして、單に勞働を以て唯一の條件と爲し、以て生活の平等均一を期するが故に、個人互に相競爭するの必要無く、隨つてまた資本運轉の智識經驗を積むの必要も無く、社會を組織する所の各個人は單に一大勞働軍の一兵卒として、多數と共に旅進旅退すれば足るのみ。然れども之と同時に各個人は自己の意志に反して勞働を強制せらるゝことを免れず。則ち社會主義の世界においては、勞働かしからずんば死か、この二者のうち一つを選擇せる可らざる場合、勞働が常に個人の上に來るべく、これが爲めに個人の自由を破壞し、その獨立自尊を傷け、その天爵(天性の才能)を認めず、人生を單に胃腑(胃袋)の問題に局限し、隨つて人智の退歩を來たし、社會の發展を阻み、人間の社會を變して禽獸の社會と爲すの虞あり。もし人間の社會にして個人の自由無からんか。かの自由衆異を生し、衆異眞理を生ずと言へるが如く、その個人敢爲の特性により、互に相反撥、競爭するが爲めに、その探求研磨の結果、遂に事物の眞理に到達する所の智識の源泉、向上の動機を失ひ、社會は遂にミイラの如きものと化さん。(中略)しいて、社會上における生活を平均せしめ、之を共有せしむるが如き社會主義は、我黨(自由党)の自由主義と相悖る(正反対である)所也」[159]
  3. ^ 「徳川氏、馬上に天下を取れり。然(しか)らば馬上に於いて之(これ)を復して王廷に奉ずるにあらずんば、いかで能(よ)く三百年の覇政を滅するを得んや。無名の師は王者の與(くみ)せざる所なれど、今や幕府の罪悪は天下に盈(み)つ。此時に際して断乎(だんこ)たる討幕の計に出(い)でず、徒(いたづら)に言論のみを以て将軍職を退かしめんとすは、迂闊を極まれり。乾退助」[16]
  4. ^ 大東亜戦争後の世界秩序や、日本の置かれている不公平な立場などが最たるものである。
  5. ^ 「元來、世の聵々者流(知ったかぶり)は、君主々義といひ、民本主義といふが如く、各其一方に偏し、始めより兩者を相對立せしめて議論を立つるが故に、理論上兩者相敵對するが如き形を生じ、其爭の結果、社會の秩序を紊亂するに至る也。抑も予(板垣退助)の見る所を以てすれば、君主人民とは決して相分つべきものにあらず。何となれば君主といひ人民といふも、決して單獨に存在するものにあらずして、人民ありての君主、君主ありての人民なるを以て也。則ち既に君主といふうちには、人民の意志の綜合、換言すれば輿論の結晶體といふ意味が含まれ、人民といふうちには又た之を統治して其秩序を維持する所の、最高權を執る者の存在すといふ意味が含まる。是故に民無くして君在るの理無く、人民無きの君主は一個の空名たるに過ぎず。(中略)專制君主と雖も其理想は實に人民を撫育し、其安寧幸福を求むるに在り。是故に君主と人民とは二にあらずして一也。決して始めより相敵對すべき性質のものにあらず。兩者は始めより其目的を同うし、利害を齊うせるものにして、恰も唇齒輔車の關係に在り。(中略)君主々義の神髓は卽ち取りも直さず民本主義の神髓たる也。(中略)君主々義といひ若くは民本主義と稱して、互に相爭ふが如きは、抑も誤れるの甚だしきものにして、君民は同一の目的を以て相契合融和し、共同して經綸を行ふべきものたることを知るに難からざるべし。而かも特に我邦の體制に於ては、君民の關係は恰かも親子の關係の如く、先天的に既に定まり(中略)我邦に於ては建國の始めより、君民一體にして、君意と民心は契合して相離れず。之が爲めに我邦に在ては毫も禪讓若くは選擧の形式を躡むの必要無く、人民の總意、輿論は直ちに君主によりて象徴せられ民意は卽ち君意、君意は卽ち民意にして君民は一にして決して二致無き也」より。
  6. ^ 鈴木安蔵は「板垣(退助)君並に立志社先輩諸氏は武士階級の教育を受け育った人々であり、彼等の述べるところの自由主義とは『泰西大家の新説』と日本文化によって醸熟された武士道精神の融合により誕生したものである」とする。
  7. ^ 自由党」の前身が「愛国公党」、「愛国社」であり、「自由主義」と「愛国主義」が同等の位置に置かれていた。
  8. ^ 全国水平社より設立が早い。
  9. ^ 王羲之筆『蘭亭序』「古人云、死生亦大矣、豈不痛哉。(古人云ふ、死生も亦た大なりと。豈に痛ましからずや) 意味「昔の人は言った。死ぬことも生きることも(人にとっては)実に重大なことである。(それならば)なんと悲痛なことだろうか」また、荘子(内篇):德充符の「仲尼曰、死生亦大矣、而不得與之變」からとも。
  10. ^ 板垣および、土佐国は史上一度も朝敵賊軍になった事がない。
  11. ^ a b c 「徳川家は、新田義重四男・世良田義季に出ずる世系で、義季の子・頼有が上野国新田郡得川郷(現 群馬県太田市徳川町)を領して氏をとした。吉野朝時代、世良田弥次郎満義は、同族の新田義貞に属し、子の世良田右馬助政義は、宗良親王に供奉した。斯くの如く王事を盡した尊皇の祖先を矜持として、徳川光圀は『大日本史』編纂を命じ、これにより水戸学が勃興。この水戸学が幕末維新の志士たちに与えた影響は実に大きい。この潮流に位置したのが、土佐藩の乾退助(のちの板垣)で、藩内上士の中で退助は最右翼の存在。武闘派で古今の軍事に精通し、また筋金入りの尊皇論者であった。文久二年(一八六二)、山内容堂公の御前で、武力討幕を公言して、寺村左膳(日野春章)と対論。藩内勤皇派の間崎哲馬と好誼を結び、また小野の聖人と称された勤皇派上士・平井政実(善之丞)は退助の叔父にあたる。しかし、退助自身は土佐勤王党の志士が関与した闇討ち暗殺などの行為には否定的で、その為、尊皇派でありながら武市瑞山とは一線を画していた。幕末、世上には幕府の政策に対する不満、腐敗が噴出し、多くの志士たちが王政復古を目指して討幕活動に身を投じる事となる。退助は、夙くから討幕を公言し、それを実行し、その信念を生涯にわたって貫き通した。その昔、楠木正成は尊皇討幕に忠勇無比の働きを見せ、その最期は「七度生まれ変っても国に報いる」と誓ふて湊川で散華したが、まさに板垣退助こそ幕末明治の大楠公であったと評して過言ではない。退助は大西郷と討幕の約を結び、軍事を近代化して兵を鍛え、戊辰の戦地を駆け抜けて遂に会津を鎮撫し、維新回天を成し遂げた。尊皇討幕を旗印に志を貫いた大楠公の精神は、幕末退助が継いで、維新の志は成就された。しかし、華族制度が創設され、功労者らに恩爵の沙汰が下ると、維新の志士たちは大多数の者がこれを受けて平然とした。将軍家に大政奉還を迫り、藩侯に版籍奉還を促し、自らに秩禄処分を課して断行した討幕の精神は、一体、何だったのか。美辞麗句を連ねて、その実は徳川家を将軍職から引ずり降ろす為の醜い私闘に過ぎなかったのか。維新回天から経ること僅か二十年にして、自らがそれに変わる地位に座ったのであれば、同じ轍を踏んで結局は、己こそが第二、第三の足利となるのではないか。江戸時代紫衣事件あり、禁中並公家諸法度あり、時代が下るに連れてその尊皇精神は廃れ、次第に世の矛盾を生じた。退助は討幕挙兵の当事者であったが故に、その事を最も警戒し、常に維新の精神が廃れるのを危ぶんだ。その発露が『一代華族論』である。一代華族の制までもを否定すれば、軍人の階級制度に矛盾が生じる。しかし、特権階級は世襲はすべきではないと。さらに深彫りして言うならば、本来、軍功を立てるのは己や己の子孫の為ではなく、常に皇室、国家、そして残された人々全体の為であらねばならぬと。真に清廉潔白で一片の私心をもなき武人の尊皇精神である。これを堂々と公言し、世に問い、実行したのは日本の歴史において板垣退助、唯、一人ではなかろうか。勿論、この生き方を萬人に求めるのは難しいだろうが、国家の中枢となる立場の人、公に立つ人らには当然求められるべき精神性である。翻って考えると実に神武肇国以来、わが国においては、必ず、皇室の窮地には、時代を越えて比類なき尊皇精神を発揮する人物を輩出してきた。和気清麻呂公しかり、児嶋高徳公しかり、わが大楠公しかり、そして板垣退助伯しかりである。かくして、萬世一系の皇統は保持せられてきた。この崇高なる尊皇精神が続く限り神州は不滅である。けれども、これが廃れた時は目を蓋うばかりの凄惨な現実が待ち構えているであろう。後の世を担う人々よ、どうか先人の行動を範として、この皇統を この国をお守り下さい」[204]
  12. ^ 板垣退助、楠木正成ともに「尊皇討幕」であったこと、両者ともに時代の転換期の武将で、多くの人の精神的支柱となり、国会議事堂には板垣退助、皇居には楠木正成銅像が建てられ、また両者とも軍人出身で紙幣の肖像になった人物として共通項が多い。
  13. ^ 蝦蟇の油の製法は、四六の蝦蟇の四方に鏡を立て、下に金網を敷く。蝦蟇は自分の姿が鏡に映るのを見て驚き、タラリ、タラリと脂汗を流す。これを金網の下の容器に集め、柳の小枝で、21日間煮詰める」とあり。
  14. ^ 帝國公道会創立式典の演説で、板垣自身が「私は耳が聴こえませんが…」と語っている。
  15. ^ 『吉良川老媼夜譚』桂井和雄著に、「(板垣退助は)食べ物は、卵の半熟と鮎の塩ふり焼きがお好きで、三度三度かかさずお召あがりになりました」とあり。(若いころ乾家で女中をしていた近森菊代という女性の話より)
  16. ^ 谷干城
  17. ^ (板垣自身の言葉で)「吉田(東洋)の関係は一切ございませぬ」と回想している。(『維新前後経歴談』
  18. ^ 退助が神田村に蟄居中、きこりや農夫たちと身分の隔てなく親しく交わり、それが後年、庶民の立場に立った自由民権運動に目覚めるきっかけとなったことや、免奉行(税務官)時代に農夫たちが、退助に平伏して話をするのを見て、万民が上下のへだたりなく文句を言ったり、議論したりするぐらいがちょうど良い。私にも遠慮なく文句があれば申し出てくださいと語った話など、下士や農民たちに対しても寛大であった(当時としては変人とみられることもあった)逸話は豊富である。そえがゆえに退助が自由民権運動に没頭し全国を遊説していた頃には庶民派として大衆の人気を博した[23]
  19. ^ 薩摩藩士・大山綱良は日記に「文久2年4月16日、長州永井雅楽ト申仁、専ら奸計ニ而候得共、周旋致候由、岩倉殿弥御正論相立候事、長州公(毛利慶親)早々御下京相成候旨、先達而被仰出候事」(『大山綱良日記』)とあるように、長井雅楽の『航海遠略策』を「奸計」と考える意見が多かった。
  20. ^ 中岡慎太郎が乾退助に「…貴所は役を罷められた様子であるが、私など何分、君敵のやうに言はれて用ゐられぬ。甚だ困つて居るが、一つ此処で御意見を伺ひたいが、どうでございませう」と問えば「中岡君、今日は私の言が行はれやうかと思ふ。といふのは、私が役を罷めたからといふて、貴所が訪ねて来られたといふことは、始めて私に信用を置かれた様に思ふ。一つ貴所にお尋ねせにやならぬが、貴所は私を京都で殺す積りであつたらう」と退助が云ふので、中岡は慌てて「イエさう云ふことはござりませぬ」と返したが、退助は「それはどうも怪しからぬ。中岡君に似合わぬ女々しい話であつて、大丈夫の事を談ずる。時として殺さうと思ひ、又、共にしやうと思ふ、何の遠慮が要る訳はない。どうも中岡君に似合はぬ。僕は余程失望した」と語つた。中岡は観念して「これはどうも心外のことで、如何にも其の通、殺す積りでございました」と語つた。すると退助は喜んで「さう言つて呉れてこそ後の話が出来る。さうであつたらう。しかしながらどうも貴所などの遣り方といふものは実に甚だしい(極端である)。大坂では誰々を殺し、又、容堂公の酒の伽(とぎ)に出た者を斬るの、腐つたやうな首を持つて来て脅かすのといふことは、何といふことだ(池内大学らが殺され耳を切られて晒された事件を指す)」、「それは実に悪うございました。どうぞ是から共にやつて下さい」、「宜しい。私も國に盡す上に於て、役を罷められたからからどう、役に就いたからどう、と云ふやうなことはない。素より共に遣らう」と意気投合し、互いに将来の討幕を約した[39]
  21. ^ 土佐藩の軍事職の一つ
  22. ^ 「勤役中、御侍中御加増取調之儀に付、不愈之儀有之。(中略)然に右等念入可取扱筈之處、件之次第依之、今廿七日慎被仰置候」[42]
  23. ^ 土佐の地名
  24. ^ 土佐藩の力士の名
  25. ^ 『江戸幕臣人名事典(多聞櫓文庫目録明細短冊の部)』に「御書院番・深尾政五郎。本国近江。生国武蔵。 分限高 三百俵(内百俵御足高)。養祖父深尾與兵衛死、新御番相勤申候。養父 深尾善十郎 御納戸頭。実祖父松波平三郎死 新御番相勤申候。実父 松波平兵衛 小普請。養子総領・深尾政五郎。(申歳三十五)萬延元庚申年五月十四日、従部屋住両御番之内御番入御書院番江入」とあり。『柳営補任』によると旗本・深尾善十郎の養子総領。実父は松波平兵衛。
  26. ^ 薩長同盟が結ばれたのと同じ場所にあたる。
  27. ^ ベルギーからの直輸入ではなく、米国南北戦争で使用され、戦争終結後に余剰となった武器類が日本へ輸入されたものと言われる。
  28. ^ 句読点を追加し、読みにくい箇所は、原文より一部を平仮名に改めた。
  29. ^ (書き下し)「土佐少将(山内豊範)へ、徳川慶喜反逆妄挙を助け候条、其の罪、天地に容ちあらざるにつき、讃州高松、豫州松山、同、川之江を始め、これまでの幕領惣てを征伐し、(領地の)歿収これ有るべく仰出され候。宜しく軍威を厳にし、速やかに「追討之功」之旨を(朝廷へ)奏すべく、御沙汰候事。(慶応4年)正月十一日、但し、両國中の幕領の儀は勿論、幕吏卒の領地迄も、惣て取調べ言上これあるべく、かつ人民の鎮撫は、ひとえに王化に服すべきよう致すべく所置候事」
  30. ^ 香川県善通寺市碑殿町と三豊市三野町大見の間に位置する峠。現在の国道11号線上にある。
  31. ^ 会津藩出身で東京帝国大学総長などを歴任した山川健次郎は、会津藩を評して「兵法武器が時代遅れで、藩主の松平容保幕府への忠誠心は厚かったが、情報に疎く藩主として藩内の多数派だった主戦論を抑えられなかった」ことや、「京都御所警備という朝廷に近い場所で任務に就いていたにも関わらず情報を軽視し、また会津藩における身分制度が他藩より厳しく、武士地主以外の領民の意思を軽視し、戦争準備や軍制改革も遅かった事が敗因」としている。「恭順派の意見を戊辰戦争を始まっても一層排斥し、勤王派で長州などと交渉可能な人材であった神保修理を早々に切腹に追い込み朝廷からの信用を失墜」したこと、「鳥羽・伏見の戦いでの圧倒的敗北となった後も強硬路線を主張した佐幕派こそ、藩主として説得するか処罰するかなどして、時代の変化を理解させるべきだった」と会津藩の無策ぶりを痛烈に批判している。
  32. ^ a b 土佐藩兵2個小隊:小笠原謙吉(迅衝隊三番隊)、谷重喜(迅衝隊四番隊)、北村重頼(迅衝隊砲兵隊)(7門)鳥取藩兵6個小隊:佐分利九允銃士隊、天野祐次隊、藤田束隊、宮脇縫殿隊、建部半之丞隊、山国隊(丹波農民有志による義勇兵)、佐分利鉄次郎砲兵隊(2門)、高島藩半小隊(伍長岩本順吉郎指揮)
  33. ^ 天然理心流の門人・佐藤彦五郎らを中心とした部隊。
  34. ^ a b 伯、凱旋の兵に諭戒す。「戊辰之役、會津ちて庄内またその兵を解けり。伯、朝議より凱旋の令を拜し、十月四日、愈々歸還の時に臨て全軍に諭戒して曰く「不肖、退助、されて一軍の將となり、當初、剣をたづさへて諸君と共に故郷を出づるの時、生きて再び還る念慮はすこしも無かりき。しかばねを馬革につゝみ、骨を原野にさらすはもとより覺悟の上の事なり。想はせり今日征討の功をへ、凱旋の機會に接せんとは。これ何等のしあはせぞや。ひとかなしみにへざるは、吾等、戰友同志はつゆし、あめまかするのあまりつひに一死大節に殉じ、なが英魂えいこん此土こゝに留むるに至り、あたり賊徒平定の快を見てこれ禁闕きんけつ復奏ふくそうすること あたはざるの一事なり。しかして我等、此の戰死者を置き去りにすと思はゞ、低徊あてなき躊躇さまよひこゝろへざるものあり。それを何事なにごとぞや諸君らの中にとききそふてみなみさんとこひねがふは。そもそも此の殉國諸士の墓標おくつきたひこゝろづ處なき」と。しかして軍を二面に割て若松を發し二本松へ向ふにあたり諸隊に令しむるに曰く、「今時いま、凱旋奏功の時に臨み、あへて惰心を起して王師みいくさを汚す者あらば、たちまちにして軍法を以て處す。れば全軍謹んでこれいましめよ」と。依て九日、二本松を過ぐるにのぞみてはなほ一層手厚くして毫釐のあやまちもなからしめたり」[89]
  35. ^ 当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都與吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されている。また岐阜県警部長の川俣正名が岐阜県令に対して提出した供覧文書には、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由は永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されている[96]
  36. ^ 原文「大野宰次郎氏が馳せ来たつてただちに板垣君にひしと抱きつき、「嗚呼残念なるかな」と一声叫びて落涙雨の如く右の袖を(板垣)君の身体より滴る血潮にひたして泣きしたうさま、熱心哀情が面に溢れて殆ど名状すべからざる有様なり。板垣君はこの哀声を聞かるゝに頭を廻らして静かに曰く「嘆き玉ふな板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と。嗚呼、この一言は我々自由家の記念として、以て後世に傳ふべきものなり」[99]
  37. ^ 原文「尚褧、再び突かんとして君(板垣)と共に倒れしが、君はとくはね起きて、兇徒を睨みつけ『板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ』と言はるゝ言葉の果てざるに、またもや面部へ切り掛りたり」[100]
  38. ^ 原文「君神色自若、毫も平生に異ならず、顧みて諸氏を労りかつ謂て曰く「たとい退助は死すとも自由は死せず。誰がわが党を指して「過激なり」といふ。彼、かえつてこの過激のことを成す」と」[102]
  39. ^ 後藤から小島竜太郎に伝わり、さらに中江に伝わった。中江が新聞記者に漏らしたのは随員となる今村和郎栗原亮一の洋行であるが、板垣・後藤の洋行も噂として広まっていたものと見られる[108]
  40. ^ 今村は直前まで内務省書記官であり、洋行の随行者として井上馨に選ばれた。洋行中、今村の家には毎月100円の給与が政府から支払われていた[106]
  41. ^ 顧客名簿によると、日本人最古のルイ・ヴィトン購入者は1878年鮫島尚信(在仏特命全権公使)、中野健明(一等書記官)であるが、いずれの鞄も現存しない。
  42. ^ 華族となった板垣は衆議院議員の被選挙権を喪失した為、衆議院議員となることはなく、また貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかった。
  43. ^ a b c 「(岐阜遭難)當時、板垣氏は官憲に向つて、敢(あえ)て相原を逮捕するなきを望みたるが、其の後、(明治)二十二年(大日本帝國)憲法發布の大典に當つて、國事犯の罪人は大赦令により、悉(ことごと)く放免せられたるに、板垣氏は『相原は罪名國事犯に非(あ)らざるも、均(ひと)しく國事に關する者なれば、大赦の恩命に浴せぬは洵(まこと)に残念の事なり』とて、同年三月十三日附を以て『赦免哀願書』を (明治天皇)陛下に奉呈し、次で相原は同月二十九日、北海道空知集治監より釋放された。相原は五月十一日、東京にて板垣氏に面會を乞ひ、先年の己の行爲に對し大に悔悟陳謝せり。板垣氏は素(もと)より一片の含む所もなく寧(むし)ろ公敵と認めての彼が擧動を『壮(おとこ)なり』とし、『尚(な)ほ將來に於ても余の行動を不臣不逞と認むる事あらば、何時にても再び刃を加ふべし』と説かれ、相原は深く其の宏量に感激し涙を垂れて辭去したり」[131]
  44. ^ a b c d 「是れより先き、板垣伯の事を以て出京せられ芝愛宕町の寓居に住せり。依て君(相原)は河野廣中、八木原繁祉両氏の紹介を得て、同(5月)11日伯に面謁せられぬ。其坐に列なりしものは、只八木原氏一人のみ。其時伯は君(相原)に向て「今回、恙なく出獄せられ、退助に於ても恐悦に存じ参らす」との挨拶をしませり。君(相原)一拝して「(明治)15年の事は、今日、更に何とも申す必要なし。只、其後生な爲めに幾度も特赦のことなど御心にかけられたる御厚意の段は幾重にも感謝し参らする」旨を述べられたり。其れより君(相原)は罪人となりて後ち、岐阜にて寫されたる寫眞一葉を取出し「是れ御覧候へ、此れこそ小生が伯を怨み参らせたる後、岐阜にて寫したる撮影にて候よ」と伯の前に差出されたれば、伯は「左様なるか。其時よりは如何にも今は年、老られて見ゆ。退助が知人にて北海道(の監獄)に行きたる者は誰も意外に年老て帰らるゝ事よ。久しき間の御苦労を察し参らする」と云はれたり。君(相原)は又一葉の寫眞を出し是は此頃特赦の後に寫したるものなるが、永き記念の徴までに呈し参らせたし。伯にも御持合せも候はゞ、其思召にも一葉賜はらずや」と申されば、伯は「如何にも予も一葉進じたけれども、兼て寫眞をとらする事の少なくして此處には、一葉だも持合さず。國許にはありたりと覺ゆれば、歸郷の上は必ず贈り参らすべし。都合によりては此地にて寫させ進ずべければ必ず待せ玉へ」と申され重ねて「又退助は今も昔も相異らず常に國家を以て念と成し、自ら國家の忠臣ぞと信じ居りしに、當時、足下は退助を以て社會の公敵と見做し刃を退助が腹に差挾まれたるに、今は相互無事に出會すること人事の變遷も亦奇ならずや」と。古より刺客の事は歴史上に屡々見ゆれども一旦手を下して刃を振ひたる其人と刃を受けたる其人が舊時の事を忘れて再び一堂の上に相會し手を把て談笑するなど、足下と退助との如きは千古多く其比ひを見ず。今日の會話は史家が筆して其中に入るゝとも更に差支へなきことよ。併しながら若(も)し此後退助が行事にして如何にも國家に不忠なりと思はるゝことあらば其時こう斬らるゝとも刺さるゝとも思ふが儘に振舞ひめされよ」と改めて申されたり。此時、八木原氏にも亦言葉をはさみて「小生も當時、岐阜の事ありし報を得しときは相原なる者こそ悪き奴なれと思ひしに、今日、其人をば小生が紹介して伯に見えしむること、小生に取りても亦榮あることなり」と云はれぬ。引續き種々の話ありたりしが、君(相原)がもはや暇玉はるべしといはれしとき、伯は起ちて「北地極寒、邊土惨烈(たれど)國の爲めに自愛めされよ。退助は足下(きみ)の福運を祈り奉る」と申されたりと。嗚呼、積年の舊怨一朝にして氷解せり。英雄胸中の磊落なる實に斯くこそあるべけれ」[135]
  45. ^ 相原曰く「恐(おそれ)入恥入り申し候。僕(あ)は大人(たいじん)の器(うつわ)たらず、殊更に天下(くに)を語るに足りず。淺學無才の徒ならば、先づ邊鄙(かたいなか)に往(ゆ)きて蟄居(ひきこも)り身を修めんと欲す」と。伯は「予かつて土佐の城下(まちなか)より放逐されたる時、神田と云ふ郷(さと)に在りて民庶(みんしよ)に交り身を修(をさ)めんこと有之(これあり)。君は如何(いか)にせむとすや」と訊くに、相原は「僕(あ)は、先づは無心に土壤(つち)を耕して日の光を感じ、雨の音を聞き、矩(のり)を越へず人(ひと)の爲(ため)、皇國(すめらみくに)の御爲(おんため)に陰乍(かげなが)ら奉公せんと欲す。之(これ)が僕(あ)の贖罪ならんか。願はくば人知らぬ遠き北海道に身を移し、開拓の業(わざ)を以て働かんと欲す」と[134]
  46. ^ 佐々木高行『保古飛呂比』7月14日条[139]
  47. ^ 当時は「坂」が俗字、「阪」が正字と考えられており、あえて「阪本龍馬」と書かれたもので誤字では無い。
  48. ^ 板垣家の家督は孫の守正が相続した。
  49. ^ 明治43年(1910年)8月29日施行された『日韓併合条約』を記念し征韓論における功労者として、明治45年(1912年)に制定された『韓国併合記念章制定ノ件』により大正元年(1912年)8月1日賜る
  50. ^ 板垣退助が薨去したとき、大正天皇が下賜した誄詞(るいし)による。原文は「軍(いくさ)ニ東征(とうせい)ニ從(したが)ヒ謀(はかりごと)ニ戎幕(じゆうばく)ニ參(さん)シ大政(たいせい)ノ維新(ゐしん)ニ際會(さいくわい)シテ立憲(りつけん)ノ鴻謨(こうぼ)ニ賛襄(さんじやう)シ運籌(うんちゆう)機(き)ニ合(がふ)シ獻猷(けんいう)時(とき)ニ應(おう)ズ精誠(せいせい)公(こう)ニ奉(ほう)シ出處(しゆつしよ)渝(かは)ルコト無(な)シ奄長(えむちやう)逝(ゆく)ヲ聞(き)ク曷(なん)ゾ軫痛(しんつう)ニ勝(た)ヘム茲(ここ)ニ侍臣(じしん)ヲ遣(つか)ハシ賻(ふ)ヲ齎(もた)ラシテ以(もつ)テ弔(てう)セシム。御名御璽(ぎよめいぎよじ)。大正八年七月十八日」[184]
  51. ^ 戊辰戦争で失脚した人は多いが、これによって名声を表したのは板垣退助が随一である。ここで言う「死」は字義通りの「戦死」者の事ばかりでは無く、この戦争によって地位を失い、失脚した人をも含む暗喩的な義と解されている[185]
  52. ^ オスカー・アルフレッド・アクセルソン米軍大佐(Oscar Alfred Axelson Commanding Officer)1893年11月12日、グスタフ・E・アクセルソン(1859-1917)の子として米国ミネソタ州ラムジー郡セントポールに生まれる。母はオーガスタ・マチルダ・ピーターソン・アクセルソン(1866-1950)。1918年6月、米陸軍士官学校を卒業。1919年、ニューヨーク州ブルックリンで、ノーマクララ・ローザ・アクセルソン(1899-19991)と結婚。大東亜戦争に従軍。進駐軍として来高し高知民事部長を務めた。当時は中佐。退役時は大佐1979年9月26日、米国カリフォルニア州モントレー郡フォートオードにて死去。85歳。墓は米陸軍士官学校墓地(West Point, Orange County, New York, USA)にあり、後嗣はルドルフ・アルフレッド・アクセルソン(Rudolph Alfred Axelson, 1920-1984)である。ルドルフの墓はアーリントン国立墓地にある[201]
  53. ^ アクセルソン中佐は、高知民事部長を務め1946年12月21日に起きた南海大震災に際しては「高知縣民諸君へ」と題して、次の様に述べている「高知縣民が、昭和二十一年十二月二十一日の南海大震災の恐るべき惨禍に、打ち勝つのに示した努力と精神とは賞讃に値する。この災害はかつて本縣を襲つたもののうちで、最も激しいものであつたであろう。そして、たとえ、それによつて縣民が將來に對する希望を失い、意氣阻喪し落膽したとて、誰も不思議だとは思わなかつたであろう。しかし實際は、かゝることは起らなかつた。震災の廃墟からは、新しい建物、道路、その他公共の進歩改良が始まり、それらはすべて高知をもつと住みよい所にするに役立っであろう。高知民事部は、この再建の過程を深い關心と、賞讃の念を以て見まもつて來た。我々は我々自身の目で廃墟から新らしい復興がなされて行くのを見た。かゝる偉大な結果は唯、先見の明ある指導者達ご、縣民の元氣な協力との賜物に外ならない。全縣のこの再建は、縣民の明るい樂天的な氣質を表わしており、又その氣質はすべての人々と共に働く事を幸福に思い、又將來の成功を心から祈るものである。高知民事部長 アクセルソン中佐」[202]
  54. ^ 高知市内にあった板垣の旧宅が移築保存されていたが、1945年7月4日の高知大空襲の結果、高知市内大半を焼失し、板垣の旧宅も被災者の収容住宅に転用され、見るも無残に傷んでしまった。戦後、進駐軍のアクセルソン(Axelsson)中佐が市内視察に訪れた際、板垣会館を空襲で焼いてしまったことに加え、板垣旧宅の惨状を見て「板垣退助氏は、アメリカリンカーンにも匹敵する大政治家である。わが国(米国)の人は、何という事をしてしまったのか……」と深く反省を述べた[89]
  55. ^ 「(有馬藤太が)西郷先生に『今の時に於て、二十万の兵を授けて海外に派遣し、能く国威を発揚し得る者は誰ですか』と尋ねた所、先生は即座に『それは板垣じゃ』と答えられた」[206]
  56. ^ 原田助が日記に記した新島襄の講話による
  57. ^ 約80m
  58. ^ a b 現在地は「道頓堀ZERO GATE(浪花座跡)」で、元は「浪花座」と呼ばれた芝居小屋1876年から1887年にかけての11年間だけ「戎座」と呼ばれ、後「浪花座」の名前に戻された。くいだおれビルの隣である。
  59. ^ 高知市出身の政治家自由民権運動の指導者・板垣退助(1837年-1919年)の30歳代半ば頃の姿を撮影した写真が見つかり、高知市立自由民権記念館が、平成24年(2012年)7月13日、その画像を報道陣に公開した。大阪府池田市に居住する板垣退助の曽孫が保管していたもので公開は初めて。高知近代史研究会の公文豪会長(63歳)によると、写真は明治2年(1869年)1月頃に撮影されたとみられ、板垣退助の壮年期の古写真としては「大変貴重」という。写真では中央に板垣退助、向かって右側に後藤象二郎、左側に退助の次男・正士を養子に迎えた乾正厚が写っている。退助以外はいずれも髷を結っている姿。(画像)30歳代半ば頃の板垣退助(中央)の写真を手に記者会見する高知近代史研究会・公文豪会長=平成24年(2012年)7月13日午後、高知市立自由民権記念館にて。平成24年(2012年)8月1日から、同館で開催する「新出史料展」で一般公開する」[229]
  60. ^ 明治7年(1874年)、陸軍士官学校が創設された場所にあたり「市ヶ谷記念館」が残されている。
  61. ^ 明治41年(1908年)9月12日祇園寺住職・中西悟玄が、秩父事件を初めとする自由民権運動の犠牲者を追悼するための慰霊法要を催した。自由党総裁・板垣退助を初め三多摩の自由党幹部ら1000人が参列。法要後、板垣は大演説を行い、さらに後世に残す記念として赤松の苗木2本を植樹した。中西悟玄自身も自由党党員で、明治40年(1907年)、祇園寺の住職となって以降も『週間多摩新聞』の発刊、青年会の組織指導、三多摩地区農家へ養豚の推奨など多岐に渡って地域のために活動をした人物として知られる。
  62. ^ 岡専旅館は、創業200年を誇る老舗旅館。400坪の敷地内に板垣退助が会談に使用した部屋が現存[235]
  63. ^ 京都土佐藩邸は、土佐藩主山内家の藩邸で、平時は留守居役が詰め、土佐藩における京都の諸務を掌ったが、幕末には朝廷との関係からその重要性が増した。水運の関係から高瀬川に面して門が作られ、また高瀬川には土佐橋が架けられていた。明治4年(1871年)の廃藩置県まで使用された。
  64. ^ この密談の3日後、中岡慎太郎の周旋で薩摩の小松帯刀西郷隆盛と板垣退助、谷干城らが小松帯刀の寓居(薩長同盟が結ばれたのと同じ場所)で会談し薩土討幕の密約が結ばれた。令和元年(2019年)9月22日、明治維新151年・板垣百周忌を記念して「薩土密約」に関する石碑が建立されることになったが、密約が結ばれた場所には既に「薩長同盟」を記念する石碑が建立されていた為、その石碑に敬意を表し遠慮して締結された場所ではなくその準備段階の相談をした場所に建立されることとなった。そのため石碑には「跡地」ではなく「紀念碑」と刻まれている。

出典

  1. ^ 「安倍元首相『自由は死せず』刻む高知の寺、板垣退助の位牌に揮毫」”. 岐阜新聞 (2022年7月16日). 2022年8月15日閲覧。
  2. ^ 「『自由は死せず』安倍氏記す 板垣退助の位牌に―銃撃事件1カ月」”. 時事通信社 (2022年8月5日). 2022年8月15日閲覧。
  3. ^ 「安倍元首相、板垣退助の位牌に「自由は死せず」の揮毫」『中日新聞』2022年7月16日号朝刊
  4. ^ 第146回勝兵塾月例会『板垣退助の勤皇精神』髙岡功太郎論述、公益財団法人アパ日本再興財団(公式)、令和5年(2023年)8月17日
  5. ^ 明治10年10月31日以降の戸籍(本籍地・高知 潮江新田1番地、および東京転籍後の戸籍謄本)による。(『板垣精神』)
  6. ^ 明治5年編成〜明治10年10月31日迄の戸籍(本籍地・高知市中島町44番屋敷、および同中島町69番屋敷)による。板垣退助は明治5年から同10年迄の5年間のみ戸籍謄本に「4月17日生」と記されていた。(髙岡功太郎『板垣家の戸籍謄本に見る生年月日の変遷』(所収『板垣退助の家族』一般社団法人板垣退助先生顕彰会)
  7. ^ a b 『板垣退助105回忌に寄せて』衆議院議員・中谷元著(『NPO法人板垣会』会報第11号1頁より)
  8. ^ 「三藩(薩・長・土)の兵を朝廷に献じたる時、歩兵・騎兵・砲兵・工兵の四種兵を悉く具備せるはたヾ土佐藩のみなりき。是を以て始めて観兵式に参列せるは土佐の歩兵。始めて天長節の祝砲を放てるは土佐の砲兵。始めて陛下行幸の供奉を爲せしは土佐の騎兵なりき」『我國憲政ノ由來』板垣退助著(所収『國家學會創立満三十年記念・明治憲政經濟史論』國家學會代表・高野岩三郎編、東京帝國大學内 國家學會、大正8年(1918)4月15日、182頁より)
  9. ^ 神と人道』板垣退助著、忠誠堂、大正8年(1919年
  10. ^ 『明治維新百年・板垣退助先生薨去五十年祭趣意書』より。
  11. ^ 現存日本最古のルイ・ヴィトンは板垣退助が購入
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av 『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月5日閲覧。
  13. ^ 『日本は侵略国にあらず』板垣退助
  14. ^ a b 『日本は侵略國家にあらず』、『社会主義の脅威』等は(所収『立國の大本』板垣退助著、板垣退助先生顕彰会編(復刊・現代語訳版)を参照)
  15. ^ 神と人道』板垣退助著。板垣退助の『聖書』批判に関しては後述(板垣退助の思想の項目を見よ)。
  16. ^ 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)
  17. ^ 『立国の大本』板垣退助著、第三章・君民二致なし[注釈 5]
  18. ^ 坂野潤治田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,190頁
  19. ^ a b 板垣退助暗殺未遂事件 ~「板垣死すとも自由は死せず」~ アジア資料歴史センター
  20. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、113頁。 
  21. ^ a b 板垣退助の婿の伯父と、武市瑞山の叔母の娘が婚姻
  22. ^ 桂井和雄著『聞き書き土佐私史・採訪の譜(2)-板垣退助』朝日新聞社、1981年10月10日
  23. ^ a b c d e f g h i j 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社1893年
  24. ^ 板垣山・墓所の墓石による。
  25. ^ a b c d e f g h i 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家
  26. ^ a b 『伯爵後藤象二郎』大町桂月
  27. ^ a b c 『大多摩新報』
  28. ^ a b 高知歴史散歩『武田信玄と板垣退助(2)』広谷喜十郎著。-高知市広報「あかるいまち」2007年2月号より-
  29. ^ 谷干城
  30. ^ 帝國公道会』式辞(大正8年2月23日)
  31. ^ 『佐藤一斎と其の門人』第九章
  32. ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』十一章
  33. ^ 風間健「武士道教育総論」(壮神社)
  34. ^ 『土佐維新史料』書簡篇3
  35. ^ 『板垣退助 -板垣死すとも自由は死せず-』高知市立自由民権記念館、1994年
  36. ^ 文久2年6月6日付片岡健吉宛板垣退助書簡(国立国会図書館蔵)
  37. ^ 『寺村左膳道成日記(1)』文久2年(1862)10月17日條
  38. ^ 『板垣退助』中元崇智著
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  40. ^ NPO法人『板垣会会報』第1号
  41. ^ 『武市瑞山関係文書(1)』
  42. ^ 『御侍中先祖書系圖牒(「乾退助」項)』土佐藩編纂
  43. ^ a b 『日本歴史を散歩する』海音寺潮五郎
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  45. ^ a b 『無形伯旧夢談』板垣退助談、田岡髪山筆録
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  48. ^ a b c d e 『維新前後経歴談』
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  51. ^ a b c d e f g h i j k 『板垣精神』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年9月10日閲覧。
  52. ^ 「石川清之助」は中岡慎太郎の変名。
  53. ^ 西郷隆盛のこと。
  54. ^ a b c d e f g h 板垣退助『維新前後経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』159頁、『板垣退助君戊辰戦略』他より。
  55. ^ 「後、奥羽戦争が終わり、私は東京にて西郷に面会した。その席に三条(実美)公もお居合わせで、其他の諸人も居た。平素沈黙の西郷は私を見ると忽ち口を開いた。『板垣さんは恐ろしき人よ。浪人を薩摩屋敷へ担ぎ込んで、屋敷の焼討ちに遭はした』と。私は直ぐに之に応じた。『それはむごい事よ。浪人の統御者(西郷)こそ如何にやと思ふに。然し好き幕明きではないか』西郷はそれを聞いて呵々笑ふた」(『無形伯旧夢談』板垣退助談、田岡髪山筆録より)
  56. ^ 中岡慎太郎『行々筆記』慶応3年5月25日條「福(福岡孝弟)・乾(退助)・毛(毛利吉盛)・谷(干城)と喰々堂に集る」より。
  57. ^ 中岡慎太郎『行々筆記』慶応3年5月26日條「今朝、西郷に至り、乾・ 毛・谷決意のことを論じ帰る」より。
  58. ^ a b c 『保古飛呂比』佐々木高行筆、『維新土佐勤王史』瑞山會、『中岡慎太郎』尾崎卓爾著より。
  59. ^ a b c d e 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)
  60. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治15年刊(一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻)
  61. ^ a b c 「龍馬宛て、桂の手紙原本公開 討幕の決意促す」日本経済新聞ニュースサイトで2018年4月12日掲載の共同通信記事(2022年1月1日閲覧)
  62. ^ ちなみに、左行秀の鍛冶場は近藤長次郎の家の近くにあり、退助以外にも坂本龍馬の兄・坂本直方の佩刀も作成している。
  63. ^ a b 『土佐維新史料』書翰篇(1)
  64. ^ a b c d 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)
  65. ^ a b 『京都養正社所蔵 坂本龍馬書状について』池田敬正著、大阪府立大学、1972年
  66. ^ 8月20日(太陽暦9月17日)の時点で、藩論の大勢は大政奉還論に固められていた
  67. ^ 「この言葉は、現在に置き換えると大東亜戦争敗戦後の北方領土未返還問題、韓国による竹島占領問題、日本国憲法成立時の憲法学上の疑義問題なども総て予見し得るものである」(『板垣退助の伝えたい言葉』板垣退助先生顕彰会、解説編より)
  68. ^ 「詔。源慶喜、籍累世之威、恃闔族之強、妄賊害忠良、数棄絶 王命遂矯 先帝之詔而不懼、擠万民於溝壑而不顧、罪悪所至 神州将傾覆焉 朕、今、為民之父母、是賊而不討、何以、上謝 先帝之霊、下報萬民之深讐哉。此、朕之憂憤所在、諒闇而不顧者、萬不可已也。汝、宜体 朕之心、殄戮賊臣慶喜、以速奏回天之偉勲、而、措生霊于山嶽之安。此 朕之願、無敢或懈」
  69. ^ a b c d 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』巻4、第三十一章 「鳥羽伏見の変」竜門社、1918(大正7)年、244頁。 国立国会図書館デジタルコレクション
  70. ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』巻4、第三十一章 「鳥羽伏見の変」竜門社、1918(大正7)年、244-245頁。 国立国会図書館デジタルコレクション
  71. ^ a b c 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』巻4、第三十一章 「鳥羽伏見の変」竜門社、1918(大正7)年、245頁。 国立国会図書館デジタルコレクション
  72. ^ a b 『陸援隊始末記』平尾道雄
  73. ^ 『板垣退助君伝記』宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房2009年
  74. ^ 龍馬自筆本が2枚残っており、国立国会図書館下関市立長府博物館に所蔵
  75. ^ a b 従来は慶応3年6月に起草された『船中八策』を基礎に『新政府綱領八義』が書かれたとされていたが、現在は『船中八策』は、『五箇条の御誓文』と『新政府綱領八義』を混ぜて作られた後世の歴史小説のフィクションであることが確定している。
  76. ^ 百科事典 王政復古 (日本) (コトバンク)、2021年10月8日閲覧。
  77. ^ 徳川内府大政返上将軍辞職ノ請ヲ允シ摂関幕府ヲ廃シ仮ニ総裁議定参与ノ三職ヲ置ク(宮堂上ニ諭告)、『法令全書』慶応3年、慶応3年12月9日、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。
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  82. ^ a b c d e f g h i j k 『板垣退助愛蔵品展』(2011年10月26日-12月18日)型録、高知市立自由民権記念館
  83. ^ 『無形板垣退助』平尾道雄
  84. ^ 『迅衝隊 出陣展』中岡慎太郎記念館
  85. ^ 『億兆安撫國威宣揚の(明治天皇)御宸翰』早稲田大学所蔵(所収『億兆安撫國威宣揚御宸翰謹解』髙岡功太郎解説、一般社団法人板垣退助先生顕彰会)
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  87. ^ 『無形板垣退助』平尾道雄著
  88. ^ 会津藩士埋葬の史料発見『戦死屍取仕末金銭入用帳』の写し”. 福島民報. 2017年9月25日閲覧。
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  95. ^ 『頭山精神』
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  97. ^ 『日本の有名一族』小谷野敦、幻冬舎新書、2007
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  148. ^ 坂本龍馬記念碑文写
  149. ^ 『林献堂著作集』
  150. ^ 『官報』第2350号、大正9年6月3日
  151. ^ Locipo 7月16日は板垣退助の命日「板垣死すとも自由は死せず」の地で式典 。銃撃で死亡した安倍元総理の死を追悼。板垣退助の玄孫・髙岡功太郎さんらが参列『東海テレビ』2022年7月17日放送
  152. ^ 安倍元総理が銃撃されてから1週間余り。明治の自由民権運動のリーダー板垣退助が襲撃される事件があった岐阜でも、市民らが元総理の死を悼みました。7月16日が板垣退助の命日。暴漢に襲われ「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を残した岐阜事件から2022年が140年目となるため、ゆかりの地・現在の岐阜公園の板垣退助銅像前で7月17日記念式典が開かれました。7月8日に演説中に銃撃された安倍元総理は2018年高知市にある板垣退助の菩提寺と東京の菩提寺の位牌に揮毫を寄せていて、17日はその写しも飾られ、板垣退助の玄孫・髙岡功太郎さんや地元の県・市会議員らが出席し死を悼みました。『東海テレビ』2022年7月17日放送
  153. ^ 安倍元首相、板垣退助の位牌に「自由は死せず」と揮毫『中日新聞』2022年7月16日付(朝刊)
  154. ^ 安倍元首相「自由は死せず」刻む高知の寺、板垣退助の位牌に揮毫『岐阜新聞』2022年7月16日付(朝刊)
  155. ^ 「岐阜事件」から140年・岐阜銅像前で行われた板垣退助を偲ぶ会で板垣退助の玄孫・髙岡功太郎さんらが出席し安倍元総理を追悼『中部日本放送(CBCテレビ)』2022年7月17日放送
  156. ^ 近代哲学におけるプロテスタンティズムの影響』宮庄哲夫著
  157. ^ 「本官(板垣退助)も素は仏教家系に属すれども、維新後は神道に変じましたが、併し何の宗教が宜しいやら是非を究めた訳でもないから分りませんが、本年は亡妣の五十回忌に相当して居りますから仏教を以て其の法要を営みたいと思います。(中略)荊妻(板垣絹子)は仏教を信ずる者で、本官(板垣退助)の遊猟を常に気にして廃止せんと勧告して止みませぬのと、又愚息(板垣六一)は脳病に罹りて居りますから何となく彼を憐れむの情念が起りまして、政務の煩を忘れる処でなく、却て精神に不愉快を感じましたから、其の儘帰宅致しましたが人間と云ふ者は一種妙な感情を持つて居るものであります」(『板垣伯対舎身居士・政教問答』田中弘之(舎身居士)著、舎身庵、明治36年(1903年)、62-63頁)
  158. ^ a b c 『神と人道』板垣退助著
  159. ^ 『社会主義の脅威』板垣退助著(所収『立國の大本』)
  160. ^ a b 『板垣が大江卓と話せる言葉』(所収『板垣精神』)より。
  161. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
  162. ^ 『官報』第2989号「叙任及辞令」1893年6月17日。
  163. ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
  164. ^ a b 『官報』第2085号「叙任及辞令」1919年7月17日。
  165. ^ 『官報』第3978号「叙任及辞令」1896年9月30日。
  166. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  167. ^ 永原一照次男
  168. ^ 『遠碧軒記』黒川道祐著による。一名「板垣正演」とも。
  169. ^ 板垣退助次男、乾正厚の養子となり乾姓を継ぐ。
  170. ^ 兄守正の養子
  171. ^ 「直麿」と書かれることもあるが、戸籍名は「直磨」。※人名漢字に「麿」が登録されていない時代であったため。
  172. ^ 秋山有世夫人
  173. ^ 乾正厚の養子となり乾姓を継ぐ。
  174. ^ 乾源五郎友正家を絶家再興し、乾姓を継ぐ。のち廃家して板垣姓に戻る。
  175. ^ 福岡孝弟後妻・板垣退助養女。福岡家墓所の墓石による。
  176. ^ 寺石正路 1976, p. 613.
  177. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 136.
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  179. ^ 『板垣精神』
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  183. ^ 『明治憲政経済史論』国家学会編、東京帝国大学、大正8年(1919年)4月15日、239頁
  184. ^ 『板垣精神』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編、冒頭より
  185. ^ 『板垣精神』(2019年)註より
  186. ^ a b 『勤王 即憲政の板垣退助』尾佐竹猛
  187. ^ a b c d e f 『板垣退助先生銅像供出録』財團法人板垣會編纂
  188. ^ 昭和12年4月6日、板垣会館竣工の時、板垣退助の功績を讃えて揮毫したもの。(『頭山精神』藤本尚則著)
  189. ^ 陸軍大将の川上操六も同様の意見を述べている。
  190. ^ 三宅雪嶺『世の中』
  191. ^ 『板垣君兇変・岐阜の夜嵐』岩田寛和著、1882年(明治15年)
  192. ^ 『舊各社事蹟』島崎猪十馬
  193. ^ 『寺村左膳道成日記(1)』
  194. ^ 山内容堂宛書簡(文久元年3月29日付)『吉田東洋遺稿』より。
  195. ^ 後藤象二郎宛書簡(万延元年10月10日付)『伯爵後藤象二郎』より。
  196. ^ 昭和天皇、昭和52年(1977年)8月23日の会見
  197. ^ 『昭和天皇発言録―大正9年~昭和64年の真実』高橋紘編、小学館、1989年、241頁
  198. ^ 『人物畫傳』有楽社、明治40年7月20日
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  201. ^ THE HALL OF VALOR』より
  202. ^ 『南海大震災誌』より
  203. ^ 昭和18年(1943年)9月2日、高知城公園・板垣退助先生銅像供出の壮行の辞にて
  204. ^ 『尊皇精神と一代華族論』楠正至(所収『日光東照宮と板垣退助』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編)
  205. ^ 『伊藤痴遊全集 第7巻』
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  207. ^ 『敬天愛人西郷隆盛』海音寺潮五郎著、学研M文庫、第4巻103-104頁
  208. ^ 『近代日本偽りの歴史』辻貴之著、扶桑社新書、平成29年(2017年)
  209. ^ 『蘇翁感銘録』徳富猪一郎著、昭和19年
  210. ^ 『清廉潔白にして信念の人』板垣晶子著、1984年(昭和59年)より。
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  212. ^ 『東京府立一中(旧制中学校五年制・現 都立日比谷高校)昭和十四年入学同期会・傘壽記念号』
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  216. ^ 『英雄たちの選択・板垣退助“自由民権”の光と影』NHKBSプレミアム、2020年10月7日放送
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  228. ^ 板垣退助の壮年期の古写真 初公開。後藤象二郎、乾正厚と共に撮影
  229. ^ 『千葉日報』平成24年(2012年)7月13日号
  230. ^ スポニチ』(2009年7月25日号)
  231. ^ 会津戦争末期、会津藩主と庄内藩主は、軍費欠乏を補うため、代理人のシュネルを通じて、蝦夷地をプロイセンに売却(契約文書では99年間の租借)しようとした。大村益次郎は「枝葉を切って幹を枯らす(会津藩の同盟藩を先に攻略して、救援を途絶えさせ、最後に会津藩を攻めろ)」と作戦を指示したが、板垣退助は『ナポレオン軍記』を教訓に「佛国(フランス)の兵は強しと雖も、しばしば冬山に負けをとると訊く。我等、土佐・薩摩の兵は南国育ちであるから今は優勢なりと雖も、冬となれば苦戦するであろう」と理由を述べ「幹を切って枝を枯らす(最初から会津藩を攻め、会津藩が陥落すれば、他藩も戦意を失い瓦解する)」と作戦を述べて、会津城下に一気に攻め込み、これを落城させた。プロイセンのビスマルクは、蝦夷地の売却を一旦は許否したが、3週間後に思い直し、承諾文書を日本へ送った。この時、「百平方ドイツマイル(5.625平方km)あたり30万メキシコドル」でどうかと、具体的な金額も示された。この書簡が到着する7日前、板垣らの活躍により会津藩は降伏。これにより、蝦夷地売却策は阻止された。(『駐日公使発、本国(ドイツ)向け外交書簡』ベルリン連邦文書館に契約文書が現存)
  232. ^ 「大正二年十月三日於牛久葡萄園神谷氏の為、伯爵板垣退助」(『芳名録』牛久シャトー蔵)
  233. ^ 築100年の家を訪ねる旅・明治の要人が集った歴史的広間・茨城県「牛久シャトー」続編(2022年8月17日 BS朝日放送より)
  234. ^ 朝萬(あさよろず)旅館の宿泊者
  235. ^ テレビ東京『所さんのそこんトコロ』2021年8月13日放送より。
  236. ^ a b c d e f g 植民地在住者の政治参加をめぐる相剋「台湾同化会」事件を中心として』岡本真希子著



板垣退助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 13:55 UTC 版)

江戸もの」の記事における「板垣退助」の解説

木戸同じく同姓漫画家が描く背中に鬼(般若)の顔がある人に改造された。それでも死の間際に『板垣死すとも自由は死せず!』と言って散る。

※この「板垣退助」の解説は、「江戸もの」の解説の一部です。
「板垣退助」を含む「江戸もの」の記事については、「江戸もの」の概要を参照ください。


板垣退助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 03:41 UTC 版)

翔ぶが如く」の記事における「板垣退助」の解説

参議土佐派の代表。戊辰戦争での功労から政府参画していたが、野戦軍司令官として優れていても政治家としては無能に近く西郷よりも早くから征韓論唱え征韓論撤回後は西郷と共に歩まんことを伝えるが、西郷返事つれないのだったこのため西郷以下薩摩不平士族とは距離を置き、やがて自由民権運動にその半生費やすこととなる。

※この「板垣退助」の解説は、「翔ぶが如く」の解説の一部です。
「板垣退助」を含む「翔ぶが如く」の記事については、「翔ぶが如く」の概要を参照ください。


板垣退助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 09:14 UTC 版)

山中幸盛」の記事における「板垣退助」の解説

私は常に山中鹿之介なるものを愛するのであります。彼は尼子忠臣でありまして、尼子衰運回復べからざる時に、身を致して顧みなかった男であります

※この「板垣退助」の解説は、「山中幸盛」の解説の一部です。
「板垣退助」を含む「山中幸盛」の記事については、「山中幸盛」の概要を参照ください。

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