板垣退助とは?

いたがき‐たいすけ【板垣退助】


板垣退助 いたがき たいすけ

板垣退助の肖像 その1
板垣退助の肖像 その2
板垣退助の肖像 その3
天保8年4月17日大正8年7月16日 (1837~1919

高知生まれ。政治家。高知藩山内豊信側用人などをつとめるが、藩の公武合体路線と相容れず、討幕派と連携戊辰戦争活躍明治維新後、高知藩大参事となり、藩政改革を行う。明治4年(1871)廃藩置県断行参議となり、岩倉遣外使節団派遣後の留守政府をあずかるが、征韓論が入れられず6年(1873)に下野翌年、ともに下野した後藤象二郎らと民撰議院設立建白書政府提出愛国公党立志社設立自由民権運動先頭に立つ。14年(1881)自由党総理就任。後に第2次伊藤内閣第1次大隈内閣内相をつとめた。

キーワード 政治家
著作等(近代デジタルライブラリー収載
  1. 板垣政法論 / 板垣退助述 ; 植木枝盛記 ; 五古周二編 自由, 明14.3 <YDM27656>
  2. 板垣君欧米漫遊録 / 清水次郎清水次郎, 明16 <YDM21824>
  3. 板垣君欧米漫遊日記 / 師岡国編 松井忠兵衛, 明16.6 <YDM21823>
  4. 板垣退助君演説 / 前野茂久次編 前野茂久次, 明16.9 <YDM27657>
  5. 通俗無上政法論 / 植木枝盛記 ; 和田稲積編 絵入自由出版社, 明16.12 <YDM28199>
  6. 東洋自由泰斗板垣退助君高談集 / 斉藤和助編 共立支社, 明18.5 <YDM27658>
  7. 板垣南海翁之意見 / 板垣退助述 郷敏儒, 明23.2 <YDM27659>
  8. 愛国論 / 板垣立案 ; 出射吾三郎吉田書房, 明23.3 <YDM27644>
  9. 板垣伯の意見 / 小河義郎編 小河義郎, 明23.3 <YDM27663>
  10. 板垣南海翁之意見 / 板垣退助述 ; 岩本一郎岩本一郎, 明23.5 <YDM27660>
  11. 板垣伯演説筆記 / 馬場次郎落合貫一郎, 明24.2 <YDM27662>
  12. 板垣伯意見書 / 板垣退助述 憲政党党報局, 明32.1 <YDM27661>
  13. 板垣伯対舎身居士政教問答 / 田中弘之(舎身居士)述 舎身庵, 明36.10 <YDM27996>
  14. 自由党史. [1], [2] / 宇田, 和田三郎共編 五車, 1910 <YDM28615>
  15. 一代華族論 / 板垣退助著 社会政策社, 明45.6 <YDM39456>
  16. 選挙法改正意見 / 板垣退助著 〔出版者不明〕, 〔出版不明〕 <YDM28671>

(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の「近代日本人の肖像」の内容を転載しております掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)

板垣退助

読み方いたがき たいすけ

政治家土佐生。高知藩士栄六正成の長男。名は正形。幕末期討幕派に投じ、戊辰戦争参加、のち明治維新政府参議となる。また自由民権運動さきがけとなり、自由党総理務める。第一次大隈内閣内相就任後、晩年社会事業尽力した。大正8年1919)歿、83才。

板垣退助

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板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日1837年5月21日) - 大正8年(1919年7月16日)は、日本武士(土佐藩士)、勤皇志士軍人政治家自由民権運動の主導者。従一位勲一等伯爵明治維新元勲。「憲政の父・国会を創った男」として知られる[1]




注釈

  1. ^ 退助が神田村に蟄居中、樵(きこり)や農夫たちと身分の隔てなく親しく交わり、それが後年、庶民の立場に立った自由民権運動に目覚めるきっかけとなったことや、免奉行(税務官)時代に農夫たちが、退助に平伏して話をするのを見て、万民が上下のへだたりなく文句を言ったり、議論したりするぐらいがちょうど良い。私にも遠慮なく文句があれば申し出てくださいと語った話など、下士や農民たちに対しても寛大であった(当時としては変人とみられることもあった)逸話は豊富である。そえがゆえに退助が自由民権運動に没頭し全国を遊説していた頃には庶民派として大衆の人気を博した。[8]
  2. ^ 『江戸幕臣人名事典(多聞櫓文庫目録明細短冊の部)』に「御書院番・深尾政五郎。本国近江。生国武蔵。 分限高 三百俵(内百俵御足高)。養祖父深尾與兵衛死、新御番相勤申候。養父 深尾善十郎 御納戸頭。実祖父松波平三郎死 新御番相勤申候。実父 松波平兵衛 小普請。養子総領・深尾政五郎。(申歳三十五)萬延元庚申年五月十四日、従部屋住両御番之内御番入御書院番江入」とあり。『柳営補任』によると旗本・深尾善十郎の養子総領。実父は松波平兵衛。
  3. ^ 当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都與吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されている。また岐阜県警部長の川俣正名が岐阜県令に対して提出した供覧文書には、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由は永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されている。[43]
  4. ^ 板垣家の家督は孫の守正が相続した。

出典

  1. ^ a b 『明治憲政経済史論』国家学会編、大正8年(1919年)4月15日、序文より
  2. ^ 『立国の大本』板垣退助著、第三章・君民二致なし「元來、世の聵々者流(知ったかぶり)は、君主々義といひ、民本主義といふが如く、各其一方に偏し、始めより兩者を相對立せしめて議論を立つるが故に、理論上兩者相敵對するが如き形を生じ、其爭の結果、社會の秩序を紊亂するに至る也。抑も予(板垣退助)の見る所を以てすれば、君主人民とは決して相分つべきものにあらず。何となれば君主といひ人民といふも、決して單獨に存在するものにあらずして、人民ありての君主、君主ありての人民なるを以て也。則ち既に君主といふうちには、人民の意志の綜合、換言すれば輿論の結晶體といふ意味が含まれ、人民といふうちには又た之を統治して其秩序を維持する所の、最高權を執る者の存在すといふ意味が含まる。是故に民無くして君在るの理無く、人民無きの君主は一個の空名たるに過ぎず。(中略)專制君主と雖も其理想は實に人民を撫育し、其安寧幸福を求むるに在り。是故に君主と人民とは二にあらずして一也。決して始めより相敵對すべき性質のものにあらず。兩者は始めより其目的を同うし、利害を齊うせるものにして、恰も唇齒輔車の關係に在り。(中略)君主々義の神髓は卽ち取りも直さず民本主義の神髓たる也。(中略)君主々義といひ若くは民本主義と稱して、互に相爭ふが如きは、抑も誤れるの甚だしきものにして、君民は同一の目的を以て相契合融和し、共同して經綸を行ふべきものたることを知るに難からざるべし。而かも特に我邦の體制に於ては、君民の關係は恰かも親子の關係の如く、先天的に既に定まり(中略)我邦に於ては建國の始めより、君民一體にして、君意と民心は契合して相離れず。之が爲めに我邦に在ては毫も禪讓若くは選擧の形式を躡むの必要無く、人民の總意、輿論は直ちに君主によりて象徴せられ民意は卽ち君意、君意は卽ち民意にして君民は一にして決して二致無き也」より。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月5日閲覧。
  4. ^ 坂野潤治田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,190頁
  5. ^ 『明治維新百年・板垣退助先生薨去五十年祭趣意書』より。
  6. ^ a b 板垣退助の婿の伯父と、武市瑞山の叔母の娘が婚姻
  7. ^ a b 高知歴史散歩『武田信玄と板垣退助(2)』広谷喜十郎著。-高知市広報「あかるいまち」2007年2月号より-
  8. ^ a b c d e f g h 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社1893年
  9. ^ a b c d e f g h i 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家
  10. ^ (板垣自身の言葉で)「吉田(東洋)の関係は一切ございませぬ」と回想している。(『維新前後経歴談』
  11. ^ 『土佐維新史料』書簡篇3
  12. ^ 『板垣退助 -板垣死すとも自由は死せず-』高知市立自由民権記念館、1994年
  13. ^ 文久2年6月6日付片岡健吉宛板垣退助書簡(国立国会図書館蔵)
  14. ^ 薩摩藩士・大山綱良は日記に「文久2年4月16日、長州永井雅楽ト申仁、専ら奸計ニ而候得共、周旋致候由、岩倉殿弥御正論相立候事、長州公(毛利慶親)早々御下京相成候旨、先達而被仰出候事」(『大山綱良日記』)とあるように、長井雅楽の『航海遠略策』を「奸計」と考える意見が多かった。
  15. ^ 『寺村左膳道成日記(1)』文久2年(1862)10月17日條
  16. ^ 『板垣退助』中元崇智著
  17. ^ 中岡慎太郎が乾退助に「…貴所は役を罷められた様子であるが、私など何分、君敵のやうに言はれて用ゐられぬ。甚だ困つて居るが、一つ此処で御意見を伺ひたいが、どうでございませう」と問えば「中岡君、今日は私の言が行はれやうかと思ふ。といふのは、私が役を罷めたからといふて、貴所が訪ねて来られたといふことは、始めて私に信用を置かれた様に思ふ。一つ貴所にお尋ねせにやならぬが、貴所は私を京都で殺す積りであつたらう」と退助が云ふので、中岡は慌てて「イエさう云ふことはござりませぬ」と返したが、退助は「それはどうも怪しからぬ。中岡君に似合わぬ女々しい話であつて、大丈夫の事を談ずる。時として殺さうと思ひ、又、共にしやうと思ふ、何の遠慮が要る訳はない。どうも中岡君に似合はぬ。僕は余程失望した」と語つた。中岡は観念して「これはどうも心外のことで、如何にも其の通、殺す積りでございました」と語つた。すると退助は喜んで「さう言つて呉れてこそ後の話が出来る。さうであつたらう。しかしながらどうも貴所などの遣り方といふものは実に甚だしい(極端である)。大坂では誰々を殺し、又、容堂公の酒の伽(とぎ)に出た者を斬るの、腐つたやうな首を持つて来て脅かすのといふことは、何といふことだ(池内大学らが殺され耳を切られて晒された事件を指す)」、「それは実に悪うございました。どうぞ是から共にやつて下さい」、「宜しい。私も國に盡す上に於て、役を罷められたからからどう、役に就いたからどう、と云ふやうなことはない。素より共に遣らう」と意気投合し、互いに将来の討幕を約した。『維新前夜経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』127頁)
  18. ^ NPO法人『板垣会会報』第1号
  19. ^ 土佐藩の軍事職の一つ
  20. ^ 『武市瑞山関係文書(1)』
  21. ^ 『迅衝隊出陣展』39頁
  22. ^ 「石川清之助」は中岡慎太郎の変名。
  23. ^ 西郷隆盛のこと。
  24. ^ a b c d 『維新前後経歴談』
  25. ^ 『中岡慎太郎先生』尾崎卓爾
  26. ^ a b 『土佐維新史料』書翰篇(1)
  27. ^ a b c d 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)
  28. ^ 句読点を追加し、読みにくい箇所は、原文より一部を平仮名に改めた。
  29. ^ 『板垣退助君伝記』宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房2009年
  30. ^ 『板垣退助君戊辰戦略』一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻
  31. ^ a b c d 『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治15年刊(一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻)
  32. ^ a b c d e f g h i j 『板垣退助愛蔵品展』(2011年10月26日-12月18日)型録、高知市立自由民権記念館
  33. ^ a b 土佐藩兵2個小隊:小笠原謙吉(迅衝隊三番隊)、谷重喜(迅衝隊四番隊)、北村重頼(迅衝隊砲兵隊)(7門)鳥取藩兵6個小隊:佐分利九允銃士隊、天野祐次隊、藤田束隊、宮脇縫殿隊、建部半之丞隊、山国隊(丹波農民有志による義勇兵)、佐分利鉄次郎砲兵隊(2門)、高島藩半小隊(伍長岩本順吉郎指揮)
  34. ^ 天然理心流の門人・佐藤彦五郎らを中心とした部隊。
  35. ^ 『無形板垣退助』平尾道雄
  36. ^ 『迅衝隊 出陣展』中岡慎太郎記念館
  37. ^ a b 伯、凱旋の兵に諭戒す。「戊辰之役、會津陷(お)ちて庄内またその兵を解けり。伯、朝議より凱旋の令を拜し、十月四日、愈々歸還の時に臨て全軍に諭戒して曰く「不肖、退助、推(お)されて一軍の將となり、當初、剣を仗(たづさへ)て諸君と共に故郷を出づるの時、生きて再び還る念慮は毫(すこし)も無かりし。屍(しかばね)を馬革に裹(つゝ)み、骨を原野に曝(さら)すは固(もと)より覺悟の上の事なり。想はせり今日征討の功を了(を)へ、凱旋の機會に接せんとは。これ何等の幸(しあはせ)ぞや。獨(ひと)つ悲(かなし)みに堪(た)へざるは、吾等、戰友同志は露(つゆ)に臥(ふ)し、雨(あめ)に餐(まか)するの餘(あまり)、竟(つひ)に一死大節に殉じ、永(なが)く英魂(えいこん)を此土(こゝ)に留むるに至り、眸(ま)の當(あた)り賊徒平定の快を見て之(これ)を禁闕(きんけつ)に復奏(ふくそう)する事(こと)能(あた)はざるの一事なり。而(しか)して我等、此の戰死者を置き去りにすと思はゞ、低徊(あてなき)躊躇(さまよひ)の情(こゝろ)に堪(た)へざるものあり。それを何事(なにごと)ぞや諸君らの中に刻(とき)を競(きそ)ふて南(みなみ)に歸(き)さんと冀(こひねが)ふは。抑(そもそ)も此の殉國諸士の墓標(おくつき)に對(たひ)し心(こゝろ)に恥(は)づ處なき乎(や)」と。而(しか)して軍を二面に割て若松を發し二本松へ向ふに當(あた)り諸隊に令しむるに曰く、「今時(いま)、凱旋奏功の時に臨み、敢(あへ)て惰心を起して王師(にしきのみはた)を汚す者あらば、忽(たちまち)にして軍法を以て處す。然(さ)れば全軍謹んで之(これ)を戒(いまし)めよ」と。依て九日、二本松を過ぐるに臨(のぞ)みては猶(なほ)一層手厚くして毫釐の過(あやま)ちも莫(なか)らしめたり」(『板垣精神』より)
  38. ^ 「戊辰戦争と廃藩置県」『岩波講座日本歴史 第15巻 近現代1』.
  39. ^ 明治2年(1869年)6月|薩長土肥の4藩主が版籍奉還を願い出る:日本のあゆみ”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. 2018年2月1日閲覧。
  40. ^ 『立国の大本』板垣退助著(現代語訳版)より
  41. ^ 中村定吉 編、「廢藩置縣ノ詔」『明治詔勅輯』、p18、1893年、中村定吉。[1]
  42. ^ 高松宮家『幟仁親王行実』1933年、184頁、NDLJP:1212495/158
  43. ^ 知っていましたか? 近代日本のこんな歴史|板垣退助暗殺未遂事件〜「板垣死すとも自由は死せず」〜
  44. ^ 『日本の有名一族』小谷野敦、幻冬舎新書、2007
  45. ^ 所収『明治憲政経済史論』国家学会編、東京帝国大学、238頁
  46. ^ 原文「大野宰次郎氏が馳せ来たつてただちに板垣君にひしと抱きつき、「嗚呼残念なるかな」と一声叫びて落涙雨の如く右の袖を(板垣)君の身体より滴る血潮にひたして泣きしたうさま、熱心哀情が面に溢れて殆ど名状すべからざる有様なり。板垣君はこの哀声を聞かるゝに頭を廻らして静かに曰く「嘆き玉ふな板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と。嗚呼、この一言は我々自由家の記念として、以て後世に傳ふべきものなり」(『大阪朝日新聞』明治15年(1882年)4月11日号)
  47. ^ 原文「尚褧、再び突かんとして君(板垣)と共に倒れしが、君はとくはね起きて、兇徒を睨みつけ『板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ』と言はるゝ言葉の果てざるに、またもや面部へ切り掛りたり」(『有喜世新聞』明治15年(1882年)4月11日
  48. ^ 板垣退助暗殺未遂事件 ~「板垣死すとも自由は死せず」~ アジア資料歴史センター
  49. ^ 原文「君神色自若、毫も平生に異ならず、顧みて諸氏を労りかつ謂て曰く「たとい退助は死すとも自由は死せず。誰がわが党を指して「過激なり」といふ。彼、かえつてこの過激のことを成す」と」(『板垣君岐阜遭難記録』岩田徳義著、明治26年(1893年)
  50. ^ 『板垣退助』中元崇智著、中公新書、2020年、95頁より
  51. ^ 『ハーバート・スペンサー コレクション』p.445
  52. ^ a b c 『自由党史』
  53. ^ 高知市立自由民権記念館寄託
  54. ^ ルイ・ヴィトン、板垣退助もご愛用 ひ孫、トランク寄託”. 朝日新聞 (2011年9月17日). 2011年9月17日閲覧。[リンク切れ]
  55. ^ 顧客名簿によると、日本人最古のルイ・ヴィトン購入者は1878年鮫島尚信(在仏特命全権公使)、中野健明(一等書記官)であるが、いづれも現存せず。
  56. ^ a b c 『自由黨史』
  57. ^ 『自叙伝』竹内綱
  58. ^ 『明治文化全集(22)』、429頁
  59. ^ 華族となった板垣は衆議院議員の被選挙権を喪失した為、衆議院議員となることはなく、また貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかった。
  60. ^ a b c d 「是れより先き、板垣伯の事を以て出京せられ芝愛宕町の寓居に住せり。依て君(相原)は河野廣中、八木原繁祉両氏の紹介を得て、同(5月)11日伯に面謁せられぬ。其坐に列なりしものは、只八木原氏一人のみ。其時伯は君(相原)に向て「今回、恙なく出獄せられ、退助に於ても恐悦に存じ参らす」との挨拶をしませり。君(相原)一拝して「(明治)15年の事は、今日、更に何とも申す必要なし。只、其後生な爲めに幾度も特赦のことなど御心にかけられたる御厚意の段は幾重にも感謝し参らする」旨を述べられたり。其れより君(相原)は罪人となりて後ち、岐阜にて寫されたる寫眞一葉を取出し「是れ御覧候へ、此れこそ小生が伯を怨み参らせたる後、岐阜にて寫したる撮影にて候よ」と伯の前に差出されたれば、伯は「左様なるか。其時よりは如何にも今は年、老られて見ゆ。退助が知人にて北海道(の監獄)に行きたる者は誰も意外に年老て帰らるゝ事よ。久しき間の御苦労を察し参らする」と云はれたり。君(相原)は又一葉の寫眞を出し是は此頃特赦の後に寫したるものなるが、永き記念の徴までに呈し参らせたし。伯にも御持合せも候はゞ、其思召にも一葉賜はらずや」と申されば、伯は「如何にも予も一葉進じたけれども、兼て寫眞をとらする事の少なくして此處には、一葉だも持合さず。國許にはありたりと覺ゆれば、歸郷の上は必ず贈り参らすべし。都合によりては此地にて寫させ進ずべければ必ず待せ玉へ」と申され重ねて「又退助は今も昔も相異らず常に國家を以て念と成し、自ら國家の忠臣ぞと信じ居りしに、當時、足下は退助を以て社會の公敵と見做し刃を退助が腹に差挾まれたるに、今は相互無事に出會すること人事の變遷も亦奇ならずや」と。古より刺客の事は歴史上に屡々見ゆれども一旦手を下して刃を振ひたる其人と刃を受けたる其人が舊時の事を忘れて再び一堂の上に相會し手を把て談笑するなど、足下と退助との如きは千古多く其比ひを見ず。今日の會話は史家が筆して其中に入るゝとも更に差支へなきことよ。併しながら若(も)し此後退助が行事にして如何にも國家に不忠なりと思はるゝことあらば其時こう斬らるゝとも刺さるゝとも思ふが儘に振舞ひめされよ」と改めて申されたり。此時、八木原氏にも亦言葉をはさみて「小生も當時、岐阜の事ありし報を得しときは相原なる者こそ悪き奴なれと思ひしに、今日、其人をば小生が紹介して伯に見えしむること、小生に取りても亦榮あることなり」と云はれぬ。引續き種々の話ありたりしが、君(相原)がもはや暇玉はるべしといはれしとき、伯は起ちて「北地極寒、邊土惨烈(たれど)國の爲めに自愛めされよ。退助は足下(きみ)の福運を祈り奉る」と申されたりと。嗚呼、積年の舊怨一朝にして氷解せり。英雄胸中の磊落なる實に斯くこそあるべけれ(『獄裡の夢 : 一名、相原尚褧君実伝』池田豊志智編、金港堂、明治22年(1889年)7月より)
  61. ^ 『板垣退助君伝記』第4巻、宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房、2009年
  62. ^ a b 『元勲板垣退助伯爵傳』より。
  63. ^ 相原曰く「恐(おそれ)入恥入り申し候。僕(あ)は大人(たいじん)の器(うつわ)たらず、殊更に天下(くに)を語るに足りず。淺學無才の徒ならば、先づ邊鄙(かたいなか)に往(ゆ)きて蟄居(ひきこも)り身を修めんと欲す」と。伯は「予かつて土佐の城下(まちなか)より放逐されたる時、神田と云ふ郷(さと)に在りて民庶(みんしよ)に交り身を修(をさ)めんこと有之(これあり)。君は如何(いか)にせむとすや」と訊くに、相原は「僕(あ)は、先づは無心に土壤(つち)を耕して日の光を感じ、雨の音を聞き、矩(のり)を越へず人(ひと)の爲(ため)、皇國(すめらみくに)の御爲(おんため)に陰乍(かげなが)ら奉公せんと欲す。之(これ)が僕(あ)の贖罪ならんか。願はくば人知らぬ遠き北海道に身を移し、開拓の業(わざ)を以て働かんと欲す」と。(『元勲板垣退助伯爵傳』)
  64. ^ 『千賀覚書』
  65. ^ 『板垣退助君傳記』
  66. ^ a b 『板垣が大江卓と話せる言葉』(所収『板垣精神』)より。
  67. ^ 『官報』第2350号、大正9年6月3日
  68. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
  69. ^ 『官報』第2989号「叙任及辞令」1893年6月17日。
  70. ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
  71. ^ a b 『官報』第2085号「叙任及辞令」1919年7月17日。
  72. ^ 『官報』第3978号「叙任及辞令」1896年9月30日。
  73. ^ 明治43年(1910年)8月29日施行された『日韓併合条約』を記念し征韓論における功労者として、明治45年(1912年)に制定された『韓国併合記念章制定ノ件』により大正元年(1912年)8月1日賜る
  74. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  75. ^ a b 石井代蔵『土俵の修羅』時事通信社「友綱再興に燃えた喧嘩玉錦」
  76. ^ 『佐藤一斎と其の門人』第九章
  77. ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』十一章
  78. ^ 風間健「武士道教育総論」(壮神社)
  79. ^ 『明治憲政経済史論』国家学会編、東京帝国大学、大正8年(1919年)4月15日、239頁
  80. ^ 板垣退助が薨去したとき、大正天皇が御下賜あらせられた誄詞(るいし)による。原文は「軍(いくさ)ニ東征(とうせい)ニ從(したが)ヒ謀(はかりごと)ニ戎幕(じゆうばく)ニ參(さん)シ大政(たいせい)ノ維新(ゐしん)ニ際會(さいくわい)シテ立憲(りつけん)ノ鴻謨(こうぼ)ニ賛襄(さんじやう)シ運籌(うんちゆう)機(き)ニ合(がふ)シ獻猷(けんいう)時(とき)ニ應(おう)ズ精誠(せいせい)公(こう)ニ奉(ほう)シ出處(しゆつしよ)渝(かは)ルコト無(な)シ奄長(えむちやう)逝(ゆく)ヲ聞(き)ク曷(なん)ゾ軫痛(しんつう)ニ勝(た)ヘム茲(ここ)ニ侍臣(じしん)ヲ遣(つか)ハシ賻(ふ)ヲ齎(もた)ラシテ以(もつ)テ弔(てう)セシム。御名御璽(ぎよめいぎよじ)。大正八年七月十八日」(『板垣精神』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編、冒頭より)
  81. ^ 戊辰戦争で失脚した人は多いが、これによって名声を表したのは板垣退助が随一である。ここで言う「死」は字義通りの「戦死」者の事ばかりでは無く、この戦争によって地位を失い、失脚した人をも含む暗喩的な義と解されている。(『板垣精神』2019年)註より
  82. ^ a b 『勤王 即憲政の板垣退助』尾佐竹猛
  83. ^ a b c d e f 『板垣退助先生銅像供出録』財團法人板垣會編纂
  84. ^ 『板垣君兇変・岐阜の夜嵐』岩田寛和著、1882年(明治15年)
  85. ^ 『舊各社事蹟』島崎猪十馬
  86. ^ 『寺村左膳道成日記(1)』
  87. ^ 山内容堂宛書簡(文久元年3月29日付)『吉田東洋遺稿』より。
  88. ^ 後藤象二郎宛書簡(万延元年10月10日付)『伯爵後藤象二郎』より。
  89. ^ 昭和天皇、昭和52年(1977年)8月23日の会見
  90. ^ 『昭和天皇発言録―大正9年~昭和64年の真実』高橋紘編、小学館、1989年、241頁
  91. ^ 『人物畫傳』有楽社、明治40年7月20日
  92. ^ a b 『板垣先生記念事業復興計画趣意書』財団法人板垣会、昭和29年(1958年)
  93. ^ オスカー・アルフレッド・アクセルソン米軍大佐(Oscar Alfred Axelson Commanding Officer)1893年11月12日、グスタフ・E・アクセルソン(1859-1917)の子として米国ミネソタ州ラムジー郡セントポールに生まれる。母はオーガスタ・マチルダ・ピーターソン・アクセルソン(1866-1950)。1918年6月、米陸軍士官学校を卒業。1919年、ニューヨーク州ブルックリンで、ノーマクララ・ローザ・アクセルソン(1899-19991)と結婚。大東亜戦争に従軍。進駐軍として来高し高知民事部長を務めた。当時は中佐。退役時は大佐1979年9月26日、米国カリフォルニア州モントレー郡フォートオードにて死去。85歳。墓は米陸軍士官学校墓地(West Point, Orange County, New York, USA)にあり、後嗣はルドルフ・アルフレッド・アクセルソン(Rudolph Alfred Axelson, 1920-1984)である。ルドルフの墓はアーリントン国立墓地にある。(『THE HALL OF VALOR』より)
  94. ^ アクセルソン中佐は、高知民事部長を務め1946年12月21日に起きた南海大震災に際しては「高知縣民諸君へ」と題して、次の様に述べている「高知縣民が、昭和二十一年十二月二十一日の南海大震災の恐るべき惨禍に、打ち勝つのに示した努力と精神とは賞讃に値する。この災害はかつて本縣を襲つたもののうちで、最も激しいものであつたであろう。そして、たとえ、それによつて縣民が將來に對する希望を失い、意氣阻喪し落膽したとて、誰も不思議だとは思わなかつたであろう。しかし實際は、かゝることは起らなかつた。震災の廃墟からは、新しい建物、道路、その他公共の進歩改良が始まり、それらはすべて高知をもつと住みよい所にするに役立っであろう。高知民事部は、この再建の過程を深い關心と、賞讃の念を以て見まもつて來た。我々は我々自身の目で廃墟から新らしい復興がなされて行くのを見た。かゝる偉大な結果は唯、先見の明ある指導者達ご、縣民の元氣な協力との賜物に外ならない。全縣のこの再建は、縣民の明るい樂天的な氣質を表わしており、又その氣質はすべての人々と共に働く事を幸福に思い、又將來の成功を心から祈るものである。高知民事部長 アクセルソン中佐」(『南海大震災誌』より)
  95. ^ 高知市内にあった板垣の旧宅が移築保存されていたが、1945年7月4日の高知大空襲の結果、高知市内大半を焼失し、板垣の旧宅も被災者の収容住宅に転用され、見るも無残に傷んでしまった。戦後、進駐軍のアクセルソン(Axelsson)中佐が市内視察に訪れた際、板垣会館を空襲で焼いてしまったことに加え、板垣旧宅の惨状を見て「板垣退助氏は、アメリカリンカーンにも匹敵する大政治家である。わが国(米国)の人は、何という事をしてしまったのか……」と深く反省を述べた。(『板垣精神』より)
  96. ^ 昭和18年(1943年)9月2日、高知城公園・板垣退助先生銅像供出の壮行の辞にて
  97. ^ 『伊藤痴遊全集 第7巻』
  98. ^ 「(有馬藤太が)西郷先生に『今の時に於て、二十万の兵を授けて海外に派遣し、能く国威を発揚し得る者は誰ですか』と尋ねた所、先生は即座に『それは板垣じゃ』と答えられた」(『維新史の片鱗』有馬藤太著、1921年)
  99. ^ たとえば海音寺「敬天愛人西郷隆盛」学研M文庫、4巻、P103~104
  100. ^ 『清廉潔白にして信念の人』板垣晶子著、1984年(昭和59年)より。
  101. ^ 『日本人の百年(4)-自由民権運動-』世界文化社
  102. ^ 『東京府立一中(旧制中学校五年制・現 都立日比谷高校)昭和十四年入学同期会・傘壽記念号』
  103. ^ 『明治政府を担った人々(3)板垣退助』小西四郎著(所収『明治政府 -その政権を担った人々-』大久保利謙編、新人物往来社、1971年
  104. ^ 『英雄たちの選択・板垣退助“自由民権”の光と影』NHKBSプレミアム、2020年10月7日放送
  105. ^ 『生きている歴史』P177
  106. ^ 原田助が日記に記した新島襄の講話による
  107. ^ 『新島襄の福島伝道 : 会津若松教会の設立を巡って』山下智子、同志社大学同志社社史資料センター、2017-02-28
  108. ^ 『咢堂漫談』
  109. ^ 『坂本中岡暗殺事件』谷干城著、1906年
  110. ^ 『生きている歴史』P179
  111. ^ 郷土史家・乾常美との対談より。
  112. ^ a b 『英信流居合と板垣伯』岡林九敏著(所収『土佐史談』第15号)
  113. ^ 『無雙直傳英信流居合に就いて』中西岩樹著、土佐史談、1933年(昭和8年)による。
  114. ^ 『板垣退助伯爵彰徳会設立趣意書』より
  115. ^ 清水勲編『近代日本漫画百選』(岩波書店(岩波文庫)、1997年)、p.81,92。
  116. ^ 『杉山茂丸伝』、野田美鴻著、島津書房、1992年
  117. ^ 市島謙吉「随筆春城六種」
  118. ^ 『神と人道』板垣退助著
  119. ^ 板垣退助の壮年期の古写真 初公開。後藤象二郎、乾正厚と共に撮影
  120. ^ 高知市出身の政治家自由民権運動の指導者・板垣退助(1837年-1919年)の30歳代半ば頃の姿を撮影した写真が見つかり、高知市立自由民権記念館が、平成24年(2012年)7月13日、その画像を報道陣に公開した。大阪府池田市に居住する板垣退助の曾孫が保管していたもので公開は初めて。高知近代史研究会の公文豪会長(63歳)によると、写真は明治2年(1869年)1月頃に撮影されたとみられ、板垣退助の壮年期の古写真としては「大変貴重」という。写真では中央に板垣退助、向かって右側に後藤象二郎、左側に退助の次男・正士を養子に迎えた乾正厚が写っている。退助以外はいずれも髷を結っている姿。(画像)30歳代半ば頃の板垣退助(中央)の写真を手に記者会見する高知近代史研究会・公文豪会長=平成24年(2012年)7月13日午後、高知市立自由民権記念館にて。平成24年(2012年)8月1日から、同館で開催する「新出史料展」で一般公開する」(『千葉日報』平成24年(2012年)7月13日号)





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