やまうち‐とよしげ【山内豊信】
読み方:やまうちとよしげ
[1827〜1872]江戸末期の土佐藩主。号、容堂。支藩から出て本藩を継ぎ、吉田東洋を登用して藩政改革を行った。一橋慶喜(徳川慶喜)の将軍擁立に尽力し、公武合体運動・大政奉還に活躍。
やまのうち‐とよしげ【山内豊信】
読み方:やまのうちとよしげ
山内豊信 (やまのうちとよしげ)
山内豊信 やまうち とよしげ
高知生まれ。幕末の高知藩主。父は藩主分家山内豊著。嘉永6年(1853)の黒船襲来を契機に藩政改革を断行、吉田東洋を登用し成果を上げる。幕政にも積極的に参加し、将軍継嗣問題では一橋慶喜を擁立する一橋派を支援。対立する大老井伊直弼に弾圧を受け、2年半にわたり謹慎生活を送る。以後公武合体派として幕政改革に乗り出し、土佐勤皇党を弾圧、藩内の尊攘激派の鎮圧に努める。慶応3年(1867)後藤象二郎の進言を受け入れ、徳川慶喜に大政奉還を建白。雄藩連合を構想。明治政府において議定、制度寮総裁等に就く。
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山内容堂
(山内豊信 から転送)
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山内 容堂 / 山内 豊信(豊茂)(やまうち ようどう / やまうち(やまのうち) とよしげ[注釈 1]、文政10年10月9日〈1827年11月27日〉[2] - 明治5年6月21日〈1872年7月26日〉[2])は、幕末の外様大名、明治初期の華族。土佐藩15代藩主。位階は従一位[3]。諱は豊信[要出典]。隠居後の号は容堂[4]。土佐藩連枝の南邸山内家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男[2]。母は側室の平石氏。酒と女と詩を愛し、自らを好んで「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」や「酔翁」と称した[5]。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、尊王家でありながら佐幕派でもあり、一見中途半端な態度をとったことから、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されることがあった[6]。
注釈
- ^ 土佐山内氏は土佐でも古くから「やまうち」と呼ばれており、江戸幕府が編集した『完成重修諸家譜』にも「やまうち」のふりがながある[1]。
- ^ 豊惇の死が発表されたのは翌年の嘉永2年2月28日のことであった[11]。
- ^ 豊信には側女との間に郁太郎という男児が生まれていたため、次期藩主を早い段階で指名することで無駄な嫌疑を避ける目的があったとされる[14]。
- ^ 徳川慶喜の口述記である『昔夢会筆記』で慶喜自身が語る大政奉還の動機・経緯は、以下。慶喜は「日本国の為に徳川家康が開いた幕府を、日本国の為に自分が葬る覚悟」で1866(慶応2)年12月5日、30歳のとき将軍職を拝命した、という。渋沢栄一・編、徳川慶喜・著『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』第一「将軍職を襲(つ)ぎ給いし事」(平凡社、1967年)「昭徳公薨じ給いし時、板倉伊賀守(勝静、後に松叟(しょうそうと称す)永井主水正(尚志(なおむね)、後に介堂(かいどう)と称す)は御遺命と称し、予に相続を勧めてやまず。予は「先年御養君の一件(※将軍継嗣問題か)ありて、予に野心ありしごとく世に伝えられしことあれば、今もし足下等の言に従わば、いよいよ世評を実にするものなれば、受け難し」とて拒みしに、仰せ誠に御道理にはあれども、今国歩艱難の際、貴卿ならでは局に当り給わん人なし。とかくの御議論なくして受けさせ給うべし」という。されど予は、なお辞して聴かず、「たとい朝廷より御沙汰ありとも御受けはするまじ」といえるに、両人は「決して朝廷の御沙汰を請うようの事は仕らず。ただ誠意をもって、貴卿の御許諾を待つのみなり」とて、それより後は日よりに来りて、「今日はいかに、今日はいかに」と迫るのみなりき。されば予もこの間に思い運らす節ありて、密かに原市之進を召して衷情を語り、「板倉・永井の両人には、先年の御養君一件をもって辞とせしも、実を云わば、かかることはいずれにてもよし。ただ熟(つらつら)考うるに、今後の処置は極めて困難にして、いかに成り行くらん思い計られず。いずれにしても、徳川の家をこれまでのごとく持ち伝えんことは覚束なければ、この際断然王政の御世に復して、ひたすら忠義を尽さんと思うが、汝の所存はいかに」と問えるに、市之進は、「御尤もの御存知寄りなれども、もし一著を誤らば非常の紛乱を招くべし。第一かかる大事を決行するに堪える人の候や。今の老中等にては、失礼ながら仕果たせらるべしとも思われず。また人材なきにあらざれども、今の御制度にては俄かに軽輩を登庸して大事の局に当らしめ難し。さればむしろ力の及ばん限り、御先祖以来の規範を御持続ある方がよろしからん」といえり。かかる次第なれば、予もいまだ政権奉還をこの際に結構するを得ずして、遂に板倉・永井を召し、徳川家を相続するのにて、将軍職を受けずとも済むことならば足下等の請に従わん」といいしに、それにてもよしとの事なりしかば、遂に宗家を相続することとなれり。されども一旦相続するや、老中等はまた将軍職をも受けらるべしと強請せるのみならず、外国との関係などもありて、結局これも諾せざるを得ざるに至れり。かかる予が政権奉還(※大政奉還)の志を有せしは実にこの頃よりの事にて、東照公(家康公)は日本国のために幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国のために幕府を葬るの任に当るべしと覚悟を定めたるなり。」
- ^ a b c d e f 多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、160-161頁。「具視退キ休憩室ニ入リ独リ心語ス。豊信(容堂)猶ホ固ク前議ヲ執リ動カザレバ吾レ霹靂ノ手ヲ以テ事ヲ一呼吸ノ間ニ決センノミ。乃チ非蔵人ニ命ジ茂勲ヲ喚バシム。茂勲至リ座ニ著ク。具視ニ謂テ曰ク予ハ卿ガ論ヲ以テ事理当然トス。今マ辻ニ命ジ後藤ヲ諷諭シテ卿ガ論ニ従ハシメンコトヲ図ル。後藤若シ之を肯ンゼザルトキハ予ハ飽クマデ容堂ト抗弁シテ已マザラントス。将曹已ニ五藩重臣ノ休憩室ニ入ル象次郎切ニ一蔵ヲ説キ豊信ノ議ニ従ハシメントス。一蔵敢テ聴カズ将曹乃チ象次郎ニ諷諭スルニ具視ノ論ニ対シ抗弁スルノ不利ナルコトヲ以テス。象次郎大ニ悟ル。是ニ於テ象次郎ハ慶永豊信ヲ見テ之ヲ説キ曰ク前刻主張セラルヽ尊議ハ恰モ内府公(慶喜)ガ詐謀ヲ懐カルヽヲ知リ之ヲ蔽ハント欲スル者ノ如キノ嫌アリ。願クハ之ヲ再思セラレンコトヲ。既ニシテ上再ヒ出御アラセラレ親王諸臣ヲ召シ会議ヲ継カサシメ給フ豊信心折レ敢テ復タ之ヲ争ハス朝議遂ニ決す蓋シ倶視ノ論旨ニ従フナリ熾仁親王進ンテ御前ニ候シ以テ宸断ヲ仰ク上之ヲ可シ給フ時已ニ三更ヲ過ク」
- ^ a b 国書刊行会・編『史籍雑纂』苐四(国書刊行会、1911-1912年)「丁卯日記」254頁。「一、爰に再ひ小御所会議之次第を詳説せんとす、如前説上下已に班列に着くの後、中山殿より先一点無私之公平を以、王政之御基本被為建度叡旨之趣御発言に而、夫れより徳川氏弊政、殆違勅ともいふへき條々不少、今府内政権を還し奉るといへとも、其出る處之正邪を弁し難けれは、実績を以之を責譲すへしなと、縉紳諸卿論議あるに、」
- ^ 渋沢栄一・著『徳川慶喜公伝』(竜門社、1918(大正7)年)第4巻、第二十九章 大坂城移徙、小御所会議、183頁。「中山前大納言勅旨を宣べて曰く、「今般徳川家より政権返上につき、大政御一新の基本を肇設し、万世不抜の国是を建定し給わんとす、各皆聖旨を奉体して公議を尽すべし」と。」
- ^ 渋沢栄一・著『徳川慶喜公伝』(竜門社、1918(大正7)年)第4巻、第二十九章 大坂城移徙、小御所会議、183頁。「斯くて会議に移れるに、公卿の中には「内府政権を返上したれども、果して忠誠の意に出づるや否やを知らず、宜しく実蹟を以て之を責譲すべしとの論盛なりければ、」
- ^ 多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、158頁。「豊信先ツ議ヲ発シテ曰ク速ニ徳川内府ヲ召シテ朝議ニ参与セシムヘシ」
- ^ 小御所会議時の明治天皇は16歳である。
- ^ 国書刊行会・編『史籍雑纂』苐四(国書刊行会、1911-1912年)「丁卯日記」254頁「土老候(山内容堂)大声を発して、此度之変革一挙、陰険之所為多きのみならず、王政復古の初に当って凶器を弄する、甚だ不祥にして乱階を倡ふに似たり、二百余年天下太平を致せし盛業ある徳川氏を、一朝に厭棄して疎外に付し、幕府衆心之不平を誘ひ、又人材を挙る時に当って、斯の政令一途に出、王業復古之大策を建、政権を還し奉りたる如き大英断之内府公をして、此大議之席に加へ給はさるは、甚公議之意を失せり、速に参内を命せらるへし、畢竟如此暴挙企られし三四卿、何等之定見あって、幼主を擁して権柄を窃取せられる抔としたたかに中山殿(中山忠能)を挫折し、諸卿を弁駁せられ」
- ^ 渋沢栄一・著『徳川慶喜公伝』(竜門社、1918(大正7)年)第4巻、第二十九章 大坂城移徙、小御所会議、183頁「松平容堂声を励まして曰く「今日の挙、頗る陰険の所為多きのみならず、王政復古の初に当りて凶器を弄すること甚だ不詳にして、乱階を開くに似たり。抑元和偃武以来二百余年、海内をして太平の隆治を仰がしめしは徳川家にあらずや、然るを一朝故なく覇業を抛ち、政権を奉還したるは、政令一途に出でて、金甌無欠の国体を維持せんことを謀るものにして、其忠誠感ずるに堪へたり。且内府(慶喜)英明の名は既に天下に聞ゆ、宜しく之をして朝議に参預し意見を開陳せしむべし。畢竟此の如き暴挙を企てられし三四卿は幼主を擁し奉りて権柄を窃まんとするにあらざるか」と一座を睥睨して意気軒昂たり。」
- ^ 多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、158-159頁。「今日ノ挙頗ル陰険ニ渉ル諸藩人戎装シテ兵器ヲ擁シ以テ禁闕ヲ守衛ス不祥尤モ甚シ王政施行ノ首廟堂宜ク公平無私ノ心ヲ以テ百事ヲ措置スヘシ然ラサレハ則チ天下ノ衆心ヲ帰服セシメル能サラン元和偃武以来幾ント三百年ニ近シ海内ヲシテ太平ノ隆治ヲ仰カシムルモノハ徳川氏ナリ一朝故ナク其大功アル徳川氏ヲ疏斥スルハ何ソ其レ少恩ナルヤ今マ内府カ祖先ヨリ継承ノ覇業ヲ抛チ政権ヲ奉還セシハ政令一途ニ出テ以テ金甌無欠ノ国体ヲ永久ニ維持センコトヲ謀ルモノニシテ其忠誠ハ洵ニ感嘆スルニ堪エタリ且内府ガ英名ノ名ハ既ニ天下ニ聞ユ宜ク速ニ之ヲシテ朝議ニ参与シ以テ意見ヲ開陳セシムヘシ而ルニ二三ノ公卿ハ何等ノ意見ヲ懐キ此ノ如キ陰険ニ渉ルノ挙ヲナスヤ頗ル暁解スヘカラス恐ラクハ幼沖ノ天子ヲ擁シテ権柄ヲ竊取セント欲スルニ非サルカ誠ニ天下ノ乱階ヲ作ルモノナリ豊信気騰リ色驕ル傍若無人ノ状アリ」
- ^ 国書刊行会・編『史籍雑纂』苐四(国書刊行会、1911-1912年)「丁卯日記」254頁。「公も亦諄々として、王政之初に刑律を先にし、徳誼を後にせられ候事不可然、徳川氏数百年隆治輔賛之功業、今日之罪責を掩ふに足る事を弁論し給ひ、諸卿之説漸く屈せんとする」。但しここでいう「公」は誰の事か明示されていない。
- ^ 多田好間・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、157-161頁。「倶視之ヲ叱シテ曰ク此レ御前ニ於ケル会議ナリ卿当サニ粛慎スヘシ聖上ハ不世出ノ英材ヲ以テ大政維新ノ鴻業ヲ建テ給フ今日ノ挙ハ悉ク宸断ニ出ツ妄ニ幼沖ノ天子ヲ擁シ権柄ヲ竊取セントノ言ヲ作ル何ソ其レ亡礼ノ甚シキヤ豊信恐悚シ失言ノ罪ヲ謝ス」
- ^ 高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、2007年、ISBN 9784642037778)「第二部 新政体の模索と倒幕、第十章 王政復古クーデター、三 小御所会議、1 岩倉具視の一喝をめぐって ~ 2 小御所会議の意味」では、小御所会議参加者らの手になる他の一次史料である『丁卯日記』『嵯峨実愛手記』『実麗卿記』『松平春嶽未公刊書簡集』(12月13日付 松平茂昭宛 春嶽書簡)77頁、『大久保利通文書』二、133~134頁、12月12日蓑田宛書簡、12月21日藩庁宛大久保利通書簡)、あるいは明治政府最初の修史事業『復古記』での第二回小御所会議の史料(「春嶽私記」等)、同じく明治政府による『三条実美公年譜』(1901年)、同時期の史書である竹越与三郎『新日本史』(1891年)、勝田孫弥『西郷隆盛伝』(1894年)、指原安三『明治政史』(1892年)などに同様の記述がみられず、却って最も詳細な一次史料である『丁卯日記』では大久保が先に容堂・春嶽へ「辞官納地の後で参内させれば慶喜の忠誠に実があるか分かる」と反論、岩倉が大久保に追従し「正邪を見分けるに、空論を以て弁析するより形跡の実を見て(慶喜の真意を)知るべき」と発言する順序・より消極的な内容など『岩倉公実記』と矛盾した記述すらみられることから、岩倉具視側が『岩倉公実記』にのみ、批判しえない権威としての天皇像を定着させるため岩倉が容堂を叱責し容堂が謝罪する場面という、現実には存在しなかった嘘の逸話を挿入した、とする。
- ^ 国書刊行会・編『史籍雑纂』苐四(国書刊行会、1911-1912年)「丁卯日記」254-255頁「諸卿之説漸く屈せんとする時、大久保一蔵席を進んて申陳しは、幕府近年悖逆之重罪而已ならす、此度内府之処置におゐて其正姦を弁するに、強ち尾越土候之立説を信受へきにあらす、是を事実上に見るに如かす、先其官位を貶し其所領を収めん事を命して、一毫不平の声色なくんは、其真実を見るに足れは、速に参内を命し朝堂に立しめらるへし、もし之に反し一点扞拒の気色あらは、是譎詐なり、実に其官を貶し其地を削り、其罪責を天下に示すへしとの議論を発す、岩倉卿是に付尾して其説を慫慂し、正邪の分、空論を以弁析せんより、形迹の実を見て知るへしと論弁を極められ、二候亦正論を持して相決せす」
- ^ 手島益雄・編『浅野長勲自叙伝』(平野書房、1937年)84-85頁。「此の日、西郷吉之助は、夜の会議には警戒諸軍の指揮の任に就いてゐて、議席には列しなかったが、同藩の者から会議の真情を聴き、更に驚く気色なく『已むを得ざる時は之れあるのみ』と剣を示したそうである。」
- ^ 手島益雄・編『浅野長勲自叙伝』(平野書房、1937年)85頁。「乃ち非蔵人に命じ、余を喚ばしめ、一室に誘って申されるには、『薩土の間、議大いに衝突す。之れに因り、遂に維新の事業も水泡に帰せん』と、之れを深く憂慮せられ、余に後藤象二郎を説諭せよと依頼された。」
- ^ 国書刊行会・編『史籍雑纂』苐四(国書刊行会、1911-1912年)「丁卯日記」255頁「象次郎は吾公之説を推して、陰険を排して公正に出ん事を諭して止まず」
出典
- ^ 平尾 1961, p. 2.
- ^ a b c “山内豊信 | 近代日本人の肖像”. www.ndl.go.jp. 2021年11月26日閲覧。
- ^ 平尾 1961, p. 247.
- ^ 家近 2021, p. 115.
- ^ 家近 2021, p. 11.
- ^ 家近 2021, p. 9.
- ^ 家近 2021, p. 20.
- ^ a b 平尾 1961, p. 11.
- ^ a b c 家近 2021, p. 26.
- ^ 家近 2021, pp. 26–27.
- ^ a b c 平尾 1961, p. 15.
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- ^ 家近 2021, p. 27.
- ^ a b 平尾 1961, p. 17.
- ^ a b 平尾 1961, pp. 17–18.
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- ^ 平尾 1961, pp. 208–211.
- ^ 徳富蘇峰 『近世日本国民史 明治三傑』 講談社版、1981年5月、413頁
- ^ a b 酒でうっぷんを晴らす…幕末の英雄が迎えた「46歳のあっけない最期」河合 敦 bizSPA!フレッシュ 扶桑社 2022.01.22
- ^ “山内豊信(山内容堂)墓”. しながわ観光協会. 2019年3月15日閲覧。
- ^ 多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、157頁。
- ^ 渋沢栄一・著『徳川慶喜公伝』(竜門社、1918(大正7)年)第4巻、第二十九章 大坂城移徙、小御所会議、184頁。「松平大蔵大輔、容堂の説を助けて、「王政の初に、刑律を先にし徳誼を後にせられんこと然るべからず、徳川家数百年隆治輔賛の功業、今日の罪責を償いて余りあり」」
- ^ 『大久保利通日記』5巻(慶応3年12月)、414頁。「一今夜五時於 小御所御評議越公容堂公大論公卿を挫き傍若無人」
- ^ 多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、157-161頁。
- ^ 手島益雄・編『浅野長勲自叙伝』(平野書房、1937年)84-85頁。
- ^ 手島益雄・編『浅野長勲自叙伝』(平野書房、1937年)85頁
- ^ 渋沢栄一・著『徳川慶喜公伝』(竜門社、1918(大正7)年)第4巻、第二十九章 大坂城移徙、小御所会議、186頁。「(大久保利通による容堂・春嶽への抗弁に)後藤象二郎駁して、「王政復古の挙は、公明正大の処置に出づるを要す、今日の事誠に陰険に渉れり、必ず内府(慶喜)を召して朝議に参与せしめざるべからず」といひ、議論紛々たり」
- ^ A.B.ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新』長岡祥三(訳)、講談社<講談社学術文庫1349>、1998年、140ページ。原著は1915年刊。
- ^ 『海舟全集 第十巻』
- ^ 第4回講演速記録 『維新前後経歴談』(p.4)“維新史料編纂会 講演速記録”. 国会図書館. 2022年1月24日閲覧。所収
- ^ 『早稲田清話』P90
- ^ 『早稲田清話』P330
- ^ 熊田編 1924, p. 30.
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