謹慎生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 19:45 UTC 版)
宝暦8年(1757年)宝暦事件で同門竹内式部が投獄されると、宝暦9年(1759年)いずれかに抗議の上表を行ったが、取り上げられなかったため、自ら5年間の蟄居を願い出た。しかし、願書が「漢字相交、異様之文法」だとして再提出を命じられると、これを無視して師範の病気と偽り上京し、宝暦10年(1760年)松岡仲良の渾成塾に入門、九条家に出入りしたため、宝暦12年(1762年)6月3日閉門を言い渡された。7月22日閉門を解かれ、8月22日改めて出国禁止を命じられた。村役人も士愛の出国を秘匿したとして処罰され、町年寄・並庄屋が追込、組頭が叱りの刑を受け、隣村の割庄屋が村務を代行した。 宝暦13年(1763年)11月朝鮮通信使来日を聞き、蒲刈島での面談を賀茂代官に願い出るも許されず、宝暦14年(1764年)1月10日弟多門が面会に参加した。
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