一六戦争・保保連合
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1992年、東京佐川急便事件を発端にした竹下派(経世会)会長・金丸信の失脚・政界引退により、派閥会長の後継問題が浮上する。会長代行の小沢に反発する梶山らは後継会長に小渕を推し、羽田孜を推した盟友関係の小沢と対立した(一六戦争)。結局、参院を抑えた小渕が後継会長に決定したが、小沢や羽田等は派中派の改革フォーラム21を結成して経世会は内部分裂状態となった。梶山は自民党幹事長に就任するが、これに反発する小沢系は正式に派閥を離脱し羽田派となる。さらには梶山が消極的であった政治改革関連4法案の否決を受け、羽田派のうち34人に加えて一部の他派議員が内閣不信任決議に賛成し、羽田派に加えて武村正義らのグループなどが離党するに至る。不信任成立を受けての1993年の総選挙で自民党は半数を回復できず野党に転落し、梶山ら執行部は一連の責任をとって退陣する。細川内閣樹立の立役者となったライバルの小沢とは対照的に、梶山は「自民党下野のA級戦犯」と言われ、1994年6月に自社さ連立政権が誕生し自民党が与党に復帰するまで、謹慎生活を余儀なくされた。 1995年9月の自民党総裁選では橋本総裁誕生の立役者となり、1996年1月に橋本内閣が発足すると、内閣官房長官に就任した。官房長官在任中特に1996年の総選挙後は、かつて党内抗争を繰り広げた政敵・小沢率いる新進党との「保保連合構想」を党内の亀井静香建設相らと模索し、幹事長の加藤紘一、野中広務ら「自社さ派」と激しく対立。しかし、橋本や竹下が「自社さ派」に軸足を置いたため、1997年9月、官房長官を退任。竹下や野中との関係はこの頃から悪化した。
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