一六戦争・保保連合とは? わかりやすく解説

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一六戦争・保保連合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:34 UTC 版)

梶山静六」の記事における「一六戦争・保保連合」の解説

1992年東京佐川急便事件発端にした竹下派経世会会長金丸信失脚政界引退により、派閥会長後継問題浮上する会長代行小沢反発する梶山らは後継会長小渕推し羽田孜推した盟友関係の小沢対立した一六戦争)。結局参院抑えた小渕後継会長決定したが、小沢羽田等は派中派改革フォーラム21結成して経世会内部分裂態となった。梶山自民党幹事長就任するが、これに反発する小沢系は正式に派閥を離脱羽田派となる。さらには梶山消極であった政治改革関連4法案の否決を受け、羽田派のうち34人に加えて一部他派議員内閣不信任決議賛成し羽田派加えて武村正義らのグループなどが離党するに至る。不信任成立受けて1993年総選挙自民党半数回復できず野党転落し梶山執行部一連の責任をとって退陣する細川内閣樹立立役者となったライバル小沢とは対照的に梶山は「自民党下野A級戦犯と言われ1994年6月自社さ連立政権誕生し自民党与党復帰するまで、謹慎生活余儀なくされた。 1995年9月自民党総裁選では橋本総裁誕生立役者となり、1996年1月橋本内閣発足すると、内閣官房長官就任した官房長官在任中特に1996年総選挙後は、かつて党内抗争繰り広げた政敵小沢率い新進党との「保保連合構想」を党内亀井静香建設相らと模索し幹事長加藤紘一野中広務ら「自社さ派」と激しく対立。しかし、橋本竹下が「自社さ派」に軸足置いたため、1997年9月官房長官退任竹下野中との関係はこの頃から悪化した

※この「一六戦争・保保連合」の解説は、「梶山静六」の解説の一部です。
「一六戦争・保保連合」を含む「梶山静六」の記事については、「梶山静六」の概要を参照ください。

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