野中広務
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野中 廣務(のなか ひろむ、1925年〈大正14年〉10月20日 - 2018年〈平成30年〉1月26日[1][2] )は、日本の政治家。
注釈
- ^ ただし、国政進出後からは公言したことはなかった。
- ^ 角岡伸彦は著書『はじめての部落問題』で『野中広務 差別と権力』からこの事件の記述を引用し、「野中が小泉首相も出席した総務会で差別発言を指弾したにもかかわらず、不幸にも、麻生(福岡8区選出)はその直後、部落差別の担当官庁である総務省の大臣に就任した。泥棒が警察官になるようなもので、これほど不適切な大臣登用はない。麻生は後に、衆議院総務委員会でこの問題を追及されたとき、「そのような発言をしたことは全くありません」と事実を否定している。ではなぜ、野中に指弾された総務会の席上で「何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった」のか、不可解である。その後、この問題発言は、うやむやになってしまった。しかし、部落出身という理由による総理大臣就任阻止の動きがあったとすれば、未遂ではあるが、有権者の代表である国会議員による“就職差別”である。」と解説している。
- ^ 『週刊ポスト』は第40巻第44号で「本誌は01年の総裁選当時、大勇会のA議員から“麻生発言”をめぐる混乱の顛末について証言を得ていた。A議員によれば、麻生発言がなされたとされる大勇会の会合の翌日、麻生氏側のB議員が自民党幹事長室に呼ばれたという。「そこには険しい表情をした野中氏が待っていて、前日の会合の議事録のようなメモを突きつけ『麻生が何をいったか全部わかっている。オレは絶対に許さない』と通告したB議員は真っ青になって派閥に戻り、経緯を報告した」という内容だった。」と報じている。
- ^ 先日、多民族共生人権教育センターの総会が開かれ、その記念講演で野中広務さんに来て頂きました。野中さんは「まさか、私が大阪人権センターに呼んで頂けるとは」と言っておられました。その懇親会の席で、私は『野中広務 差別と権力』(魚住昭著)に書かれている麻生太郎の差別発言について「あれは本当なんですか」と直接聞きました。実は部落解放同盟の中央大会でも、このことについて意見が出され、「解放同盟としては現在、事実確認ができていない」と答えていたからです。野中さんは「差別発言は本当です。次の選挙では、私は麻生の地元に入る。解放同盟も行動を起こすべきだ」と言われました。彼は、自身と部落解放同盟には考え方の違いはあるとした上で、部落差別が未だ根深いという認識は一致できるとして「差別をなくしていくためにも部落解放運動の中で、もっとエセ同和の問題に取り組んで欲しい。できたら自分の問題(麻生発言)も取り組んで欲しい」と言われました[38]。
- ^ 上杉隆によると、藤本は麻生の著書『とてつもない日本』の編集にかかわり、麻生と同じ福岡・筑豊の出身、麻生選対のあった「ホテルオークラ東京」のペントハウスで連日取材をしていた政治ジャーナリストだという[42]。
- ^ 「石炭六法は終わるが、旧産炭地が置かれた状況は変わらない。同和対策や在日朝鮮人の問題など政治的な責任はなくならない」
- ^ 野中は『老兵は死なず 野中広務全回顧録』等の著書では強制連行された朝鮮半島の「人びと」や「人たち」としている。
- ^ 2014年5月の韓国メディアによるインタビューに答えたもの。当時は安倍晋三政権。
出典
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- ^ 魚住昭 2004, pp. 143–144. 京都新聞の元政経部長笹井慈朗によると、野中が「反蜷川の闘士」として売り出した後も、彼と蜷川との信頼関係は続いていたという
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- ^ 『私は闘う』
- ^ 『老兵は死なず 野中広務全回顧録』。この体験談は、1997年4月11日の衆議院特別委員会でも前置きとして語った。
- ^ 松田 2003.
- ^ なお、『しんぶん赤旗』は、2012年にも加藤紘一に慰安婦について、2013年にも古賀誠に憲法についてインタビューを行っている。
- ^ “野中広務の消えぬ汚点-新ガイドライン関連法、国旗・国歌法、改正住民基本台帳法、そして盗聴法 | MEDIA KOKUSYO”. 2021年10月6日閲覧。
- ^ 野田聖子「選択的夫婦別姓制度」2001年11月6日
- ^ 文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋2018年二月号、~竹下から安倍まで~ 総理17人のベスト3 御厨貴/後藤謙次、171頁
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- ^ テレ朝NEWS 野中広務氏 政権運営「相当危険な状態」と懸念(2014/02/19 19:07)
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- ^ 都市共生社会研究分野主催シンポジウム『今こそ部落問題を語る—特別措置法の功罪について考える—
- ^ 第162回国会 総務委員会 第3号平成十七年二月二十二日(火曜日)
- ^ 『週刊現代』49巻1号、講談社、2007年1月13日。ただし「河野さんも言っている」という主張と異なる記述を2009年出版の「差別と日本人」ではしている
- ^ ダイヤモンド・オンライン『週刊 上杉隆』【第46回】2008年09月25日
- ^ 鈴木宗男・上杉隆と藤本の対談「総裁選『迷走』の根源」(『週刊朝日』2008年9月26日号 p.24)
- ^ 閣僚差別発言への要望書
- ^ 麻生総務大臣の「部落差別」発言について
- ^ 麻生総務大臣への申し入れ全文
- ^ 『週刊朝日』2008年9月26日号 p.24
- ^ 連載差別表現 第156回 日の丸・君が代問題をめぐるひとつのエピソード
- ^ 丹波マンガン記念館
- ^ ふらっと—特集 戦後60年と人権 野中広務さん
- ^ 民団新聞2006年12月6日、<在日から見える社会> - 在日本大韓民国民団[リンク切れ]
- ^ 対北朝鮮輸入禁止等に伴う緊急対策会議 - 京都府[リンク切れ]
- ^ 平成11年版海上保安白書
- ^ 海上警察機関による実力行使,廣瀬肇,周辺諸国との新秩序形成に関する調査研究事業報告書 -海上保安国際紛争事例の研究 第1号-
- ^ 能登半島沖の不審船事案と防衛庁の対応
- ^ 瀧野隆浩 『自衛隊指揮官』 講談社、2002年1月
- ^ 瀧野隆浩 『自衛隊指揮官』 講談社〈講談社+α文庫〉、2005年8月
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- ^ a b “「河野・村山談話は日本の良心…必ず守られるべき」”. 中央日報. (2014年5月13日) 2022年8月29日閲覧。
- ^ 野中を語る言葉には事欠かない。「叩き上げ」「剛腕」「強面」「喧嘩上手」「権力志向」「気配り」「義理人情」「闇将軍」「キングメーカー」「情報収集能力」……。海野謙二編著『野中広務—素顔と軌跡』のうち「はじめに」より
- ^ 野中広務さん死去 孤独な闘士、最後まで貫く 毎日新聞2018年1月27日 編集委員伊藤智永
- ^ 『聞き書 野中広務回顧録』, p. 381.
- ^ “野中広務氏「官房機密費、毎月5千万〜7千万円使った」”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社 (2010年4月30日). 2010年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月13日閲覧。
- ^ 時事通信2003年6月16日
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- ^ 魚住昭 2004.
- ^ 野中広務『私は闘う』
- ^ 園部まちなか散策ウォーキングに参加する。
- ^ 「2002年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人叙勲の受章者一覧」『読売新聞』2002年11月3日朝刊
- ^ “日朝友好議員連盟結成”. korea-np.co.jp. 朝鮮新報. 2023年12月26日閲覧。
- ^ 魚住昭 2004, p. 83.
- ^ “旧京都府園部町長の野中一二三氏が死去 92歳、故・野中広務元自民幹事長の実弟”. 京都新聞 (2024年4月1日). 2024年4月12日閲覧。
野中広務
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橋本派の野中広務幹事長は当然、加藤の行動を批判して、切り崩しの先頭に立った。実質的に切り崩し側の総責任者的ポジションとなり、マスコミにも多々出演した。全てが決まる(切り崩し工作が頂点を極める)と言われた不信任提出前の土日の日曜日に北海道の会合に出席するという行動すらとっている(日曜の政治関連番組には中継で出演)。週末以前は「除名」の一本槍で非常に強気な姿勢を見せていたが、日曜のテレビ発言で条件的に含みを残す発言に変わった(水面下では小里貞利が野中・青木らと交渉を断続的に続けていた)。 かつて野中は加藤が経世会と距離を置くまでは加藤を総理にすると公言してはばからなかった。1996年には加藤が幹事長時代に幹事長代理として補佐し、新進党からの保守系議員の引き抜き工作を行って自民党の衆議院単独過半数の成果を上げた関係であった。しかし、1999年の自民党総裁選で小渕の意向に反する形で加藤が立候補したことにより、(加藤と親しかったという理由で)官房長官をおろされるなど、とばっちりを受けたため、それ以降は反加藤となった。 乱後の野中は、加藤・山崎両名には党としての処分を下さなかったが、これは党内にも憂国の士がいることを森が理解ししてくれればいいという考えがあった上のことであり、「不信任案が否決されたとは言え、総理には慎重になってほしい」と発言した。しかしこれに対して森が、「不信任決議案が否決されているのに幹事長は何を言っているんだ」と発言したと聞いて失望し、幹事長職を退いている。
※この「野中広務」の解説は、「加藤の乱」の解説の一部です。
「野中広務」を含む「加藤の乱」の記事については、「加藤の乱」の概要を参照ください。
野中広務
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社会党の山口鶴男と接触するなど、自社さ政権成立に尽力した一人。村山が首相時代の1995年6月に全日空機ハイジャック事件が発生した際、村山は国家公安委員長の野中広務に「あなたを全て信頼してお任せします。もし何かあったら僕は責任を取って、総理を辞めて白装束をして慰霊に回ります」と言うほど、野中に全幅の信頼を寄せた。首相辞任後、与野党に分かれて以降も超党派で訪朝するなど活動を共にしている。「野中さんは敵に回すと怖いと言われていますけど」とインタビューで質問されても「僕はそうは思わないけど」と答えている。
※この「野中広務」の解説は、「村山富市」の解説の一部です。
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