大石ヨシエとは? わかりやすく解説

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大石ヨシエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/16 10:25 UTC 版)

大石ヨシエ
おおいし ヨシエ
生年月日 1897年2月12日
出生地 日本 京都府
没年月日 (1971-06-07) 1971年6月7日(74歳没)
死没地 日本 愛知県
出身校 信愛高等女学校卒業
前職 新聞社顧問
所属政党国民同志会→)
無所属→)
日本社会党→)
社会革新党→)
社会民主党→)
右派社会党→)
無所属
称号 従四位
勲三等宝冠章

選挙区 (京都府全府選挙区→)
旧京都2区
当選回数 5回
在任期間 1946年4月10日 - 1955年1月24日
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大石 ヨシエ(おおいし ヨシエ、1897年明治30年〉2月12日[1]1971年昭和46年〉6月7日[1][2][3])は、日本の政治家衆議院議員(5期)。

来歴

京都府出身[1][2]1915年大正4年)、私立信愛高等女学校(現大阪信愛学院高等学校)卒[1][2]。卒業後故郷の舞鶴市で参政権獲得など婦人運動に加わる[1]。のち国民同志会に入り、1931年(昭和6年)から2年間渡米する[1]。帰国後に満洲国へ渡り、新聞社の顧問などをしたが、間もなく日本に戻った[1]1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙では京都府から無所属で立候補し当選した[1][2]。当選後は日本社会党に入り、社会革新党を経て右派社会党で活動した[1]1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙で落選[4]。その後、1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙にも旧京都2区から無所属で立候補したが、落選した[5]。落選後は埼玉県深谷市に移り、晩年は愛知県西春日井郡師勝町(現在の北名古屋市)の親類宅に引き取られた[6]。1971年に愛知県で死去した[3]。死没日をもって勲三等宝冠章追贈、従四位に叙される[7]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i 『新しき明日の来るを信ず』250-253頁。
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』121-122頁。
  3. ^ a b 月刊婦人展望 (197) 3コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ 『新しき明日の来るを信ず』249頁。
  5. ^ 衆議院議員総選挙公報集録 昭和33年5月22日執行 215コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  6. ^ 『新しき明日の来るを信ず』248-249頁。
  7. ^ 『官報』第13345号15-16頁 昭和46年6月17日号

参考文献




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