宮崎茂一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/12 01:40 UTC 版)
| 宮崎 茂一 
       みやざき もいち
       | |
|---|---|
|   | |
| 生年月日 | 1917年2月15日 | 
| 出生地 |  鹿児島県鹿児島郡谷山村 | 
| 没年月日 | 2004年2月16日(87歳没) | 
| 出身校 | 東京帝国大学工学部卒業 | 
| 前職 | 国家公務員(運輸省) | 
| 所属政党 | (無所属→) 自由民主党(宮澤派) | 
| 称号 | 従三位 勲一等瑞宝章 | 
| 内閣 | 竹下改造内閣 | 
| 在任期間 | 1988年12月27日 - 1989年6月3日 | 
| 選挙区 | 旧鹿児島1区 | 
| 当選回数 | 8回 | 
| 在任期間 | 1972年12月10日 - 1996年9月27日 | 
宮崎 茂一(みやざき もいち、1917年2月15日 - 2004年2月16日)は、日本の政治家、技術士(建設部門)。位階は従三位。
来歴・人物
鹿児島県鹿児島郡谷山村大字上福元上松崎(現在の鹿児島市谷山中央)出身[1]。鹿児島県立第二中学校(現甲南高校)から第七高等学校造士館(現鹿児島大学)を経て1939年東京帝国大学工学部を卒業。
大学卒業後、内務省に入省。その後は経済企画庁を経て運輸省に移り、港湾局長などを歴任。退官後、政界入りを目指し1969年の衆議院議員総選挙に旧鹿児島1区から無所属で出馬したが落選。3年後の1972年の総選挙に再び旧鹿児島1区から無所属で出馬、初当選を飾った(当選同期に小泉純一郎・加藤紘一・山崎拓・石原慎太郎・三塚博・村岡兼造・保岡興治・瓦力・越智通雄・野田毅・深谷隆司など)。連続当選8回。
当選後は自民党に入党し、党内では宏池会(大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)に所属。郵政政務次官、行政管理政務次官、衆院法務委員長などを務め、1988年に竹下改造内閣の科学技術庁長官として初入閣を果たした。また、1993年6月から1997年6月にかけては、日本技術士会の第13代会長でもあった。1996年、政界から引退する。7期目の開票当日落選の報を受け、落選の弁を語るも報道ミスで30分後に当選の喜びを発表したというエピソードがある。
1992年4月の春の叙勲で勲一等に叙され、瑞宝章を受章する[2]。
2004年2月16日、心不全のため死去。87歳没。死没日付をもって従六位から従三位に叙された[3]。
1997年、故郷の権現ヶ尾へ銅像が建立されるが、2017年に本体が盗難に遭う。2018年11月、有志によって残された台座に顕彰碑が建てられた。
脚注
参考文献
- 「日本技術士会創立50周年記念誌」(2001年6月、日本技術士会創立50周年記念誌編集小委員会 P265)
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 渡辺紘三 |  衆議院逓信委員長 1986年 | 次代 深谷隆司 | 
| 先代 綿貫民輔 |  衆議院法務委員長 1983年 - 1984年 | 次代 片岡清一 | 
| 公職 | ||
| 先代 伊藤宗一郎 |  科学技術庁長官 第42代:1988年 - 1989年 | 次代 中村喜四郎 | 
| 先代 伊藤宗一郎 |  総理府原子力委員会委員長 第42代:1988年 - 1989年 | 次代 中村喜四郎 | 
固有名詞の分類
- 宮崎茂一のページへのリンク

 
                             
                    





