宇田耕一とは? わかりやすく解説

宇田耕一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 07:26 UTC 版)

宇田耕一

宇田 耕一(うだ こういち、1904年明治37年)10月15日 - 1957年昭和32年)12月30日)は、昭和期の日本政治家実業家経済企画庁長官(第3-4代)、科学技術庁長官(第2-3代)、衆議院議員(3期)。旧姓は六田。

人物

高知県出身。大阪市西区で六田橘太郎、ウタ夫妻の六男として生まれる[1]。1917年(大正6年)土佐中学校・高等学校の創立者でもある海運業者で衆議院議員憲政会)も務めた宇田友四郎の養子となる[1]。幼少期は高知県香美郡岸本町の伯父の家で育ち、岸本尋常小学校から高知県立第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)、高知高等学校(現高知大学)を経て、京都帝国大学法科に入学。1929年卒業後、ヨーロッパ視察、兵役を経て、1930年南満洲鉄道に入社。役員秘書などを務める。

1934年、引退する父親の跡を継いで土佐電気鉄道社長に就任。1937年からは経営不振に陥っていた淀川製鋼所の社長も務めた。1939年から1941年まで応召により中国に出征した後、高知県大日本翼賛壮年団長に就任。1942年第21回衆議院議員総選挙翼賛政治体制協議会の推薦候補として旧高知1区より立候補し当選。翼賛政治会翼壮議員同志会に所属する。

戦後は1946年から1951年まで公職追放。追放解除後政界に復帰し、改進党資金局長、日本民主党総務などを務めた。保守合同後は松村・三木派に所属。1956年石橋内閣1957年第1次岸内閣でそれぞれ経済企画庁長官科学技術庁長官として入閣。閣僚退任後の同年12月30日、現職議員のまま死去、53歳。死没日をもって勲二等旭日重光章追贈(勲四等からの昇叙)、従七位から従三位に叙される[2]

改進党時代は三木武夫とその同志(宇田自身も含む)の政治資金を一手に引き受けていたことでも知られている。

脚注

出典

  1. ^ a b 『高知県人名事典 新版』108頁。
  2. ^ 『官報』第9309号30頁 昭和33年1月6日号

参考文献

  • 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。
公職
先代
石橋湛山
(事務取扱)
経済企画庁長官
第3-4代:1956年 - 1957年
次代
河野一郎
先代
正力松太郎
科学技術庁長官
第2-3代:1956年 - 1957年
次代
正力松太郎
先代
正力松太郎
原子力委員会委員長
第2-3代:1956年 - 1957年
次代
正力松太郎




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