河原田稼吉
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河原田 稼吉
かわらだ かきち
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生年月日 | 1886年1月13日 |
出生地 | ![]() |
没年月日 | 1955年1月22日(69歳没) |
出身校 | 東京帝国法科大学政治学科 |
前職 | 内務次官 台湾総督府総務長官 |
称号 | 正三位[1] 勲二等旭日重光章 |
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内閣 | 林内閣 |
在任期間 | 1937年2月2日 - 1937年6月4日 |
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内閣 | 阿部内閣 |
在任期間 | 1939年8月30日 - 1940年1月16日 |
選挙区 | 勅選 |
在任期間 | 1938年1月7日 - 1946年5月14日 |
選挙区 | 福島中選挙区2区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1952年10月2日 - 1955年1月22日 |
河原田 稼吉(かわらだ かきち、1886年(明治19年)1月13日 - 1955年(昭和30年)1月22日[2])は、日本の内務官僚、政治家。内務大臣(第48代)、文部大臣(第50代)、大阪府知事(官選第29代)。貴族院議員、衆議院議員
来歴・人物
旧美作鶴田藩士の奥村就有の子として東京に生まれ、後の福島県南会津郡伊南村[3](現南会津町)、旧会津藩出身の農学者河原田盛美の養子となる。養父は日本における水産学の先駆者であるが、一時期近衛家の家人となっていたため、稼吉の生涯にも近衛文麿の存在が深く関わってくることになる。
旧制第一高等学校を経て1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学卒業後、内務省に入省。地方事務官、内務書記、熊本県及び長崎県警察部長を経て[3]、内務大臣秘書官床次竹二郎に見出されて社会局労働局長、台湾総督府総務長官、兼台湾総督府交通局総長取扱を歴任後、犬養内閣のとき中橋徳五郎、鈴木喜三郎両内相の内務次官となる。当初は政友会系の内務官僚と見られていたが、近衛文麿の台頭とともにその側近として注目されるようになっていった。1937年(昭和12年)林内閣では近衛との関係もあってか内務大臣を拝命。退任後の1938年(昭和13年)1月7日に貴族院勅選議員に勅任されている[4]。同年産業報国連盟理事長[2]。1939年(昭和14年)には阿部内閣で文部大臣を拝命する。戦中の1943年(昭和18年)には官選の大阪府知事となる。同年に健康保険組合連合会会長。1946年(昭和21年)9月から公職追放[2]。同年5月14日、貴族院議員を辞職[5]。
1952年(昭和27年)の第25回総選挙に中選挙区福島2区から自由党公認で立候補して当選、再選も果たしたが、2期目在任中の1955年(昭和30年)1月22日に病死した[3]。死没日をもって勲二等旭日重光章追贈[6]。
栄典
出典
- ^ 第21回国会 衆議院 議院運営委員会 第10号 昭和30年1月23日
- ^ a b c d 第21回国会 衆議院 本会議 第9号 昭和30年1月24日
- ^ 『官報』第3302号、昭和13年1月8日
- ^ 『官報』第5799号、昭和21年5月17日。
- ^ 『官報』第8421号400頁 昭和30年1月29日号
- ^ 『会津会雑誌第五十一号』
- ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
- ^ 『官報』・付録 1941年11月21日 辞令二
参考文献
外部リンク
公職 | ||
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先代 荒木貞夫 |
![]() 第50代:1939年 – 1940年 |
次代 松浦鎮次郎 |
先代 潮恵之輔 |
![]() 第48代:1937年 |
次代 馬場鍈一 |
官職 | ||
先代 三邊長治 |
![]() 官選第29代:1943年 – 1944年 |
次代 池田清 |
先代 後藤文夫 |
![]() 1928年 – 1929年 |
次代 人見次郎 |
先代 次田大三郎 |
![]() 1931年 – 1932年 |
次代 潮恵之輔 |
固有名詞の分類
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