川崎寛治とは? わかりやすく解説

川崎寛治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/06 22:20 UTC 版)

川崎 寛治(かわさき かんじ、1922年大正11年)4月18日 - 2005年平成17年)12月3日)は、日本政治家日本社会党衆議院議員

来歴・人物

日本統治時代の台湾台南市生まれ。台北高等学校 (旧制)を経て、京都帝国大学法学部へ進む。1943年(昭和18年)から学徒動員で従軍し、台湾最南端の地で終戦を迎える。1946年(昭和21年)春に鹿児島県川辺町に引き揚げて、大学に復学し卒業[1]

高校教諭、参議院議員秘書などを経て、1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙で社会党公認で旧鹿児島1区に立候補し落選、3度目の挑戦となった1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で初当選する。以後当選通算9回。当初は赤路友蔵1972年(昭和47年)の第33回衆議院議員総選挙からは新盛辰雄と共に、鹿児島1区での2人の社会党公認候補の一方を務め、1980年(昭和55年)の第36回衆議院議員総選挙で落選した以外は議席を維持した。

党務では1970年(昭和45年)から1977年(昭和52年)まで社会党国際局長に就任し、社会党が友好関係を持っていた中国共産党が統治する中華人民共和国との日中国交正常化問題への関与を含め[2]アジアアフリカ諸国との党外交を推進した。また1976年(昭和51年)のロッキード事件では社会党党調査団長として訪米している。衆議院予算委員会などに長く所属し、リクルート事件などで政府与党に対して、党を代表をして質問した論客の一人であった。 当時自民党のヤジ将軍だった鈴木宗男野次を飛ばされ「鈴木君黙れ」と一喝した。

1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙で社会党が惨敗する中、川崎も新盛と共に落選、政界を引退した。2005年(平成17年)12月3日、間質性肺炎のため死去。享年83。

政策

著作

  • 『政治に理想の灯を - 川崎寛治元社会党国際局長の回顧』 - 名越護著、2003年、南日本新聞社。南日本新聞に連載した回顧録を、同紙編集委員の名越がまとめた著作。

脚注

  1. ^ 南日本新聞社『郷土人系 上』(春苑堂書店、1969年)206頁
  2. ^ 1970年11月には成田知巳委員長を団長とした社会党訪中団が中国側の中日友好協力団と国交回復に向けた共同声明を発表し、1972年に田中角栄首相による国交正常化が実現するまでの国民世論を作った。出典:倪志敏、「田中内閣における中日国交正常化と大平正芳(その一)」『龍谷大学経済学論集』 第45巻 第5号, p.19-51(p.42)。
  3. ^ 第123回 - 衆議院 - 法務委員会 - 15号 平成04年06月19日
議会
先代
葉梨新五郎
衆議院労働委員長
1991年 - 1993年
次代
岡田利春
先代
湯山勇
衆議院災害対策特別委員長 次代
米田東吾




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「川崎寛治」の関連用語

川崎寛治のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



川崎寛治のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの川崎寛治 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS